後で遅くなった理由を訊くと、シェフはとびきりのダブルコンソメというスープを作るため、野生のエゾシカが手に入るのを待っていたのだそうだ。
入手に手間取って申し訳なかった、と謝られたが、保雄が今生で味わった最後の味があのコンソメスープだったのは、本当に幸せなことだったなあと思う。
『見えない死神 原発不明がん、百六十日の記録』(東えりか、集英社)
その日の夕方には麻薬性鎮痛薬(オピオイド)の投与を始めることは決まっていたのだが、担当した訪問看護師さんは私の話を聞いて、スープが届くまで処置を待ってくれた。保雄が十分に味わい、シェフと一緒に写真を撮り、別れの挨拶をしてから麻酔を打った。彼は満足して眠ったのだ。
その翌日、桜の開花宣言が出され、自宅近くの桜もほころんだ。たまたま見舞いに来ていた弟が、その桜をビデオ通話で中継してくれた。保雄は半分うとうとしながらもそれを見て、「桜が咲いたんだね」と嬉しそうに言っていた。
桜の季節は駅まで続く長い桜並木の下を、毎年、昼も夜も連れだって散歩したものだ。その日咲いたのはほんの数輪だったけれど、「もうすぐ満開になるよ、咲いたらまた散歩しよう」と言うと、こくりとうなずいてくれた。







