ガブリエル:日本の「ルール順守」は本当に興味深いテーマですね。特に、硬直性と柔軟性が同時に存在しているところが印象的です。日本にはグレーゾーン、つまりあいまいさや暗黙の了解をよしとする文化が根強く残っています。
一方で、特定の領域では驚くほど厳格な硬直性が見られる。そこにはいつも、興味深いパラドックスがあると感じます。そしてこの構造は、日本の学校制度にも表れているのではないでしょうか。私は、特に日本の温泉で、そのことを強く実感します。
がんじがらめのルールを
楽しむという知的な遊び
出口:温泉ですか(笑)。
ガブリエル:日本で新しいホテルに泊まるとき、私はまず、最初に温泉の利用規則を熟読するようにしています。温泉ごとに独自の非常に細かいルールがあるんですよね。日本では、公共の場に行けばたいてい「その場における適切な行動」をまとめたルール表に出合うことになります。
実際、家族で日本を訪れたとき、このことについてよく冗談を言い合いました。大人は楽しんでいましたが、子どもたちはあまりの規則の多さにショックを受けていました。何かちょっとした問題が起こるたびに、娘が「わあ、いま、223万1000番目のAかBのルールに違反しちゃったのかも!」と冗談を言うんです。
日本の友人たちでさえ、たとえルールを熟知していても「もしかして今、何かルールを破ったんじゃないか?」と不安になることがあると話してくれました。このルールの複雑さや細かさが、社会のある種の不安感を助長しているのかもしれません。日本の学校にも、似たような運営ルールがあるのではと想像します。
しかし、逆説的なことに、私はこの構造の中に自由を見いだしています。日本のルールが、私に代わってあらゆることを管理してくれることに、私はある種の喜びを実際に感じるのです。まるで宗教的な空間に足を踏み入れたかのような感覚です。ルールが敷かれた空間に入ることで、むしろ自分の主観が解放される。私はこれを「ルールという宗教」と呼びたいくらいです。
『これからの社会のために哲学ができること 新道徳実在論とWEターン』(マルクス・ガブリエル、出口康夫、光文社)
ですが、私の子どもたちはまったく逆の体験をしました。ルールがあまりにも多いことで、ルールそのものにとらわれてしまっていました。すべてのルールを完全に習得するまでは、自由を感じることができなかったのです。
そして、こうしたルールの複雑さは、日本語という言語自体にも見られますよね。そのためにさらに難易度が上がっています。言葉も社会と同様に高度に洗練されているため、学校でも、勤勉さ、細部への細やかな注意、暗記といった膨大な努力を通じて高い習熟度に達することが求められるのでしょう。
――日本人はもっと寛容に、そして笑顔になるべきなんですね。
出口:子どもだけでなく、大人も。学校だけでなく、家庭でも職場でも街角でも、日本社会にはもっと笑顔が必要だと思います。
ガブリエル:ええ、本当に良いアドバイスですね。







