例えば、こんな問いである。
「この3年間で、あなたは何から逃げなかったか」
「誰にも評価されなかったとしても、自分ではやりきったと思えることは何か」
「あなたは、どんな基準で次の場を選びたいか」
ここで重要なのは、答えを与えないことだ。「夢を持て」でも「挑戦しろ」でもない。ただ問いを発する。そして、ほんの数十秒でもよいから、考える時間を残す。卒業式は、その問いを公的に発することのできる数少ない場である。
スターがもたらすもの
では、卒業式にスターが来ることの何が問題なのか。
スターは完成された物語を持っている。挫折、努力、成功。話としては洗練され、聴衆を惹きつける。若者受けする話ができる、という評価も理解できる。
しかし、その強い物語は、卒業式の重心を外へと移してしまう可能性がある。「あの有名人が来た卒業式だった」そう記憶される1日になる。
それは悪いことではない。しかし、卒業式の日が「自分の3年間をどう意味づけたか」という日ではなくなってしまうとしたら、少し惜しい。
市場論理の観点から見れば、スターの招聘は分かりやすい施策である。話題性はほぼ約束されている。しかしそれは、学校側の経営的視点とわかりやすい成功物語への憧憬から逆算した施策である。本来は、「卒業式で生徒のなかに何を引き起こしたいのか」という目的から出発すべきではないか。
どのような人であればよいのか
外部の人を一律に否定するつもりはない。母校出身のオリンピックメダリストが来る。これは、多くの人が素直に「いい話だ」と感じるだろう。
理由は単純である。その人は外部のスターであると同時に、内部の先輩でもあるからだ。同じ校舎を歩き、同じ教室で学び、同じ校歌を歌った記憶を持っている。成功が「外から持ち込まれた栄光」ではなく、「この場所の延長線上にある可能性」として提示される。ここには連続性がある。単なる憧れではなく、「自分もあの時間から始まった」という実感に接続できる。だから違和感がない。
では、地域出身の音楽家が卒業にちなんだ演奏をしてくれる場合はどうか。これも多くの人が受け入れやすい。理由は同じである。場の時間を奪わないからだ。演奏は主役にならない。場の質を整える。言葉で意味を決めつけない。卒業生の時間を補助する存在である。







