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卒業式に有名人を招いて講演してもらう大学や高校が増えている。卒業生の思い出に残り、学校の宣伝になるという意味では悪いことではないかもしれないが、卒業式という区切りで本来考えるべきことはほかにあるのではないか。卒業式の意味について問い直す。(プリンシプル・コンサルティング・グループ株式会社 代表取締役 秋山 進、構成/ライター 奥田由意)
有名人を呼んで注目される卒業式
卒業式にアーティストやアスリートが来た――SNSや学校の公式ホームページでそんな話題が発信されると、たいていニュース記事になる。大学や高校のポータルサイトに掲載され、SNSで拡散され、学校名は一気に広がる。生徒も盛り上がるだろうし、保護者も「いい卒業式だった」と語りやすい。
学校経営という現実を考えれば、これは理解できる判断である。少子化の時代、学校も競争環境の中にある。知名度は資産であり、話題は価値だ。スターを呼べば注目は集まる。広報施策としては、非常に分かりやすく堅実な手段であろう。
市場論理そのものを否定するつもりはない。学校が経営体である以上、一定の合理性は必要だ。それでも、私はどこか引っかかる。問題は、有名人が来ることではない。そのとき卒業式という場が、本来果たすべき役割が後景に退いていないか、という点である。
卒業式の目的とは何か
卒業式は祝賀イベントではない。もちろん祝う意味はある。しかし、それだけではない。私は、卒業式の本質は「経験の昇華」にあると考えている。
3年間、4年間、あるいは6年間、その学校で過ごした時間を、単なる思い出の束として終わらせるのではなく、自分の物語として再構成すること。それが昇華だ。
学校生活は、ドラマのように分かりやすい成功体験ばかりではない。むしろ大半は、あいまいな日常の積み重ねである。思いどおりにいかなかった挑戦、評価されなかった努力、人間関係のぎこちなさ、特別な事件もなく過ぎた一年……。これらは、そのままではただの出来事にすぎない。昇華とは、それらを自分なりに意味づけし直す営みである。







