◆ロシア皇帝の失敗に学ぶ、リーダーとして批判を受け止める心構え
悩んだら歴史に相談せよ『リーダーは日本史に学べ』の著者が、舞台を世界へ広げたリーダーは世界史に学べ。東京大学・羽田 正名誉教授の監修のもと、世界史に名を刻む35人の言葉から、現代のビジネスに必要な「決断力」「洞察力」「育成力」「人間力」「健康力」と5つの力を磨く術を解説する。

「そりゃ国も滅ぶわけだ…」ロシア皇帝は国を救った恩人をなぜ嫌ったのか? 驚きの理由Photo: Adobe Stock

ロシアを救った部下に冷淡だったニコライ2世

ニコライ2世(1868~1918年)は、ロシア帝国の最後の皇帝。祖父のアレクサンドル2世が改革を進めるなかで暗殺された後、父アレクサンドル3世が皇帝に即位すると、ニコライは皇太子となった。皇太子時代には日本を訪問したが、滋賀県大津で暗殺未遂事件(大津事件)に遭遇。皇帝として即位後、中国東北部(満州)から朝鮮半島への勢力拡大を目指した。この方針が日本との対立を招き、日露戦争(1904~1905年)が勃発。当初はロシアが有利と見られていたものの、国内の革命運動などの影響で勝利を収めることができなかった。1914年、第一次世界大戦が勃発すると、ロシアはイギリスやフランスと連合国を結成して参戦したが、ドイツに対する敗北が相次いだ。戦争の長期化と国内の困窮は国民の不満を高め、1917年にロシア革命が起こる。ニコライ2世は皇帝の座を追われ、退位を余儀なくされた。退位後は家族とともに幽閉生活を送るが、反革命勢力に奪還されることを恐れた革命勢力により、1918年に皇后、子どもたち、従者とともに銃殺された。ソビエト連邦崩壊後、ニコライ2世の名誉回復が進み、ロシア正教会によって聖人に列せられた。

日露戦争の危機から
ロシアを救ったウィッテ

1905年、ロシアは日露戦争における奉天会戦や日本海海戦で連敗を喫していました。さらに国内では、民衆に対する発砲事件である「血の日曜日事件」が発生するなど、内外ともに危機的な状況に陥っていました。

この苦境のなか、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲介によって講和交渉が始まります。この重要な交渉において、ロシア側の全権代表に選ばれたのがセルゲイ・ウィッテでした。ウィッテは、日本側の全権代表であった小村寿太郎と対峙し、冷静かつ妥協を許さない交渉を展開しました。その結果、以下の驚くべき成果を引き出します。

賠償金の支払いを断固拒否
領土の割譲を南樺太の一部のみにとどめる

戦況の圧倒的な不利を考えれば、この交渉結果は奇跡的ともいえるものでした。このポーツマス講和条約の締結は、ロシアにとって最悪のシナリオを回避できたという意味で、大成功だったのです。

功労者ウィッテに冷淡だったニコライ2世

講和会議での多大な功績が認められ、ウィッテはその後、ロシア帝国の初代首相に任命されます。彼は政治改革や近代化を推し進めようと奮闘しました。

しかし、旧来の支配層からの強い抵抗もあり、その道のりは決して平坦なものではありませんでした。何より致命的だったのは、絶対君主であるニコライ2世から、最後まで積極的な支持を得られなかったことです。

なぜ皇帝はウィッテを遠ざけたのか?

ニコライ2世がこのような姿勢をとった背景には、ウィッテに対する個人的な嫌悪感がありました。

ウィッテは皇帝に対して、時に耳の痛い厳しい諫言を行っており、ニコライ2世はそんな彼をうとましく感じることが少なくなかったのです。とりわけ、ニコライ2世の統治能力を偉大な父アレクサンドル3世と比較して批判したともいわれており、この指摘は皇帝にとって非常に屈辱的なものだったと考えられます。

恩人の死に対する異例の反応

その後、ウィッテは首相を辞任し、徐々に政界から退いて1915年にこの世を去りました。驚くべきは、その際のニコライ2世のあまりにも冷淡な態度です。彼は皇后への手紙のなかに、次のように記しています。

「彼の死によって、私は心の安らぎを覚える」

さらに、ウィッテの葬儀に宮廷の使者を派遣することも、花を贈ることもありませんでした。国を救ったポーツマス講和条約での功績を考えれば、到底信じられない異例の対応です。

ニコライ2世がウィッテを遠ざけた背景には、「正しい助言が常に心地よいとは限らない」という人間の弱さがあったといえます。自分を助けてくれた人を嫌うのは、まるで自分の弱さを映し出す鏡を叩き割るような行為なのかもしれません。