兵力じゃなかった…「1000億円の金銀財宝」を抱えた豊臣家が滅びた本当の理由大阪城公園にある豊臣秀吉像(写真はイメージです) Photo:PIXTA

歴史には数々の「失敗」がある。この真実を読み解くことで、時を経て繰り返される現代の失敗に向き合う連載『歴史失敗学』。第11回は、豊臣家が滅びた理由について、考察する。(作家・歴史研究家 瀧澤 中)

豊臣家が滅びたとき
大坂城の焼け跡から発見された金銀

 慶長20(1615)年、大坂夏の陣で豊臣家は滅びた。このとき、大坂城の焼け跡から黄金2万8060枚、銀2万4000枚が発見されている(『駿府記』)。

 現在の価値にしておよそ1000億円(諸説あり)。

 金銀だけでこれほど残っていたのだから、そのほかの資産もかなり残していた可能性が高い。落城の混乱の中で多くが奪い去られたことを考えれば、豊臣家の財政がおそるべきものであったことがうかがわれる。

 だが、読者も疑問に思うであろう。これほどの膨大な資産を残しながら、なぜ戦いに勝てなかったのか。兵力の差か。

 豊臣方は、大坂冬の陣(1614年)では全軍で10万人、徳川方は20万人。翌年の夏の陣では豊臣方が5万~6万人、徳川方は15万人超である。冬の陣では徳川方の二分の一、夏の陣では三分の一。

 豊臣方は城に拠っているので、当時の軍事的な常識でいえば、徳川方は豊臣方の3倍から4倍以上の兵力で攻めなければ勝てない。そういう意味で、数量的にはかなりいい戦いであったことが理解されよう。

 では、豊臣方の兵の質が悪かったのか。

 一概には言えないのだが、大坂城に集まった兵は徳川幕藩体制からこぼれ落ちた者たちで、表面的には「寄せ集め」であった。

 ただし、関ヶ原合戦後に取り潰された大名や大名家の幹部らも多く参加しており、単なる寄せ集めとは言いがたいのである。