豊臣家の戦略をみると、「先代・豊臣秀吉が貯めた莫大なストックのみで戦おうとしていた」としか思えない。
豊臣秀吉は偉大であった。まさに一からたたき上げであそこまでつくりあげた。絶大な権力と、莫大な資産と、豊富な人脈を遺した。果たしてこの秀吉のつくった“ストック”は生かされたのか?
「秀吉の恩を忘れていないはず」
は、豊臣家の誤算だった…
秀頼のもとには、大坂冬の陣が始まる寸前まで多くの有力者が伺候した。関ヶ原合戦で西軍が敗れ、豊臣政権が徳川政権に代わったのちも、である。
秀吉股肱の臣であった福島正則や加藤清正らはむろん、前田家や上杉家、島津家など、秀吉からはやや距離のある大名も大坂城に定期的に挨拶に行き、朝廷も勅使を大坂城に派遣していた。朝廷の勅使派遣は大坂冬の陣が始まる慶長19(1614)年まで続いている。
豊臣家は思ったであろう。「まだ太閤(秀吉)の恩は忘れられていない。みな、秀頼様に期待している」、と。
子どもの頃から秀吉に育てられた福島正則や加藤清正らはともかくとして、他の大名は旧主筋という意味で豊臣家に敬意を示していただけで、秀頼の馬前に死す覚悟はさらさらなかった。
そうと気づいていれば、あるいは豊臣家は徳川幕藩体制の中で細々と生きていく道を模索したかも知れない。だが、秀吉の遺した資産はあまりにも大きく、それに依拠した生活の長い豊臣家は目覚めなかった。
秀吉の残した資産(遺産、人材、人脈)は、効率的に十分活用されたとは言いがたいのである。
関ヶ原合戦で権力の座を追われてからのち、豊臣家は強制された寺社仏閣の建築や寄付行為に資産を大盤振る舞いしながら、自派の育成にはほとんど手を付けなかった。
豊富な人脈がありながら、秀吉のように彼らのために汗をかくこともない。「奉られて当然」という態度は人脈を枯れさせるのに十分であった。
経済的な政策、たとえば大坂での産業育成などには十分応えず、ただ秀吉時代を懐かしむ庶民の上にあぐらをかいて新たなフローをつくろうとはしなかった。なぜか。







