第2次世界大戦のインパール作戦と
共通する「敗北するだけの愚策」
いずれ天下は自分のもの。いまの生活にも満足。無理にお金をつくることも、人脈を増やす必要もない……。秀吉が秀頼のために遺した巨大な資産が、逆に豊臣家の自覚を奪ったのである。
失敗の代名詞のように語られる、第2次世界大戦末期のインパール作戦。食料・弾薬の補給が確保できない中で作戦を強行し、多くの将兵を玉砕や餓死させた愚劣な作戦であった。
昭和19(1944)年という時期からいって、そもそも補給すべき資源は十分ではなかった、と思いがちだが、そうではない。
地獄の戦場の中で撤退戦をやり抜いた名将・宮崎繁三郎中将は、部下とともにやっとの思いで作戦拠点まで帰還した際、そこに、喉から手が出るほど欲しかった食料や弾薬が山積みになっているのを見て呆然とした。
資源があっても、それを活用する手立てがない。ストックを食い潰して敗北するだけの愚策。まさに、豊臣家滅亡にも共通のものを感じるのである。
豊臣家滅亡について、(1)秀頼の出生が遅かった説、(2)徳川家康の謀略にかかった説、(3)人材不足説、(4)妥協を知らない豊臣家の自滅説、など、敗因はさまざま取り沙汰されている。
いずれも複合的に作用していたのであろうが、筆者は最大の敗因を「ストックで戦うことによる限界」だと考える。
秀吉没後、豊臣家滅亡まで17年間。秀吉がつくりあげたストックは、まったく生かされなかった。創業者のつくった内部留保をぜんぶ食い尽くす無能経営者と同じである。
たとえば人脈。現代でも人脈の重要性は変わらない。そして、状況が不利なときこそ人脈は生きてくる。
加藤清正や浅野幸長、福島正則は秀頼の行く末を案じて、秀頼が17歳のときに徳川家康との会見を実現させた。慶長16(1611)年、「二條城の会見」である。加藤清正は会見の隣室に控え、何かあれば家康と差し違える覚悟であったと伝えられる。
この、大坂冬の陣まで3年という時期ですら、豊臣家を思う大名は残っていた。
もっとも、加藤清正は会見の3カ月後、浅野幸長は冬の陣のはじまる前年に死去している。が、二條城会見は関ヶ原合戦から11年後であり、この間に豊臣家が戦略的に人脈を含めた資産活用をしていれば、最悪のケースは免れたはずである。
いくら偉大な先代の資産でもしょせんは「遺されたもの」であって、現在進行形の資産形成ではない。ストックを消費するだけの者に未来はひらかれない。
手持ちの資産や人的資源がいかに多かろうと、それだけでは持続的に戦えない。物的、人的資源を活用し、より広くより深く次の資源を生み出すサイクルをつくってはじめて戦いに活路が開ける。
ストックで戦ってはならず、フローで戦う。
秀吉亡き後の豊臣家。ストックがいくらあっても、それを活用することができなかった。彼らには開戦する資格もありはしない、とまで言うのは酷か。
大坂城の、秀頼母子が自刃したといわれる山里曲輪跡に佇むと、なんとも言えないむなしさと悲しみで胸がいっぱいになるのは、筆者だけではあるまい。







