その「綱とり場所」が始まる4日前だった。鶴竜は、「最後の仕上げ」の段階で、黙々と「引く稽古」を続けていた。

「引く」というのは、悪手であるというのが大相撲の常識だ。しかも鶴竜には押し込まれると苦し紛れに引く癖がある。横綱昇進のかかる場所の直前に鶴竜は、この「悪癖」を、わざわざ稽古していたのだ。

 思わず尋ねると、鶴竜はこう語った。

「悪癖と言われますけど、それも含めて、自分のスタイルを変えるつもりは、ありませんから。いつも前に出る相撲ばかり取ることは、できませんから」

 この場所で、鶴竜は横綱昇進を果たした。

「鶴竜も、変わってるねえ」

 後日、1階が土俵になっているビルの4階の自室で、焼酎のグラスを傾けながらそう語ったのは、当時、相撲協会の理事長だった55代横綱北の湖。そして、こう続けた。

「俺は、別に変わっちゃいないよねえ?」

 みんな自分を普通だと思っている。私は苦笑いしたが、心の中では、「何を言ってんだろ、この理事長は」というのが本音だった。

 北の湖さんには、「異能」とも言える能力があった。こんなうわさ、いや伝説があった。

「北の湖は、初土俵からの全取組を記憶している」。その話を確かめると――。

「まさか。そんなの覚えちゃいませんよ」

 そりゃそうだよな、と、なぜかほっとした瞬間、北の湖さんはこう続けた。

「覚えているのは、幕下からだね」

 何だって!?

 試しに、こちらはスマホで調べながら「昭和○年、○場所の○日目は?」とクイズのように尋ねると、北の湖さんはことごとく、「うーん」と少し考えてから、対戦相手や勝敗はもちろん、手さばきを詳細に語り始めた。

 あれには、驚いた。「別に驚くほどのことでもないでしょ。当然でしょ」と北の湖さん。あの人も、変わっていた。

八百長問題で揺れるなか
飛び出した大乃国の仰天発言

 朝青龍の暴行事件に、暴力団の観戦問題、さらに野球賭博と、2010年は角界で不祥事が相次いだ。辞任に追い込まれた57代横綱三重ノ海の武蔵川理事長の後任として日本相撲協会の改革を任されたのは、元大関魁傑の放駒理事長だった。