井上:「俺たち」が身体を張って食い止めなければ、故郷を、この国を守ることはできない。そう信じるからこそ、命懸けになれる。
ただ、故郷の人びとと「俺たち」の関係はそれほど自明ではない。本当に「俺たち」は故郷にとって「期待の人」たりえているのか、事故対応の最中は確信が持てていません。それよりも、避難を余儀なくさせたことへの申し訳なさで一杯です。石もて追われるかもしれないという悲壮な覚悟もあった。
だから伊崎は、現場対応が一段落して、やっと家族の待つ避難所に来られたとき、真っ先に、地域住民に対して深々と頭を下げたのです。「住めない町にしてしまって、申し訳ありません」「本当に、すみませんでした」と。
東電社員という立場からくる責任感です。それに対して、住民たちは「利夫ちゃん、あんたがんばったよ」「故郷を守ってくれた」「ありがとう」と温かく受け入れてくれた。
《Fukushima50》では、政府や東電の責任問題や対応の是非と、吉田や伊崎ら現場を死守した人びとへの敬意との切り分けを徹底しています。前者に対しては厳しく追及すべきだが、その陰で後者が忘れられてはならない、と。両者を切り分けて両立させること。戦争を扱う場合にも当てはまる、とても大事なポイントだと思います。
吉田所長の決意は伊崎へ
伊崎の意思は我々に受け継がれていく
坂元:ラストシーンは吉田所長の葬儀から1年後の2014年、帰宅困難地域で満開になった桜並木の下で、吉田から託された手紙に伊崎が応えるモノローグです。
『人はなぜ特攻に感動するのか』(井上義和、坂元希美、光文社)
「約束するよ、吉やん。あのときイチエフで起きたことは、必ず後世に語り継いでいく。それがあの現場にいた俺たちの使命だ」
背景に流れる音楽がアイルランド民謡の〈Danny Boy〉という演出が、またバチッとはまって。花々が散る季節にダニーを待つ私は死んでしまった。でも無事に帰ってお墓に来てくれたなら、心静かに眠ることができる……「タスキは受け取りました」と報告する光景が浮かびます。
井上:映画のなかで、吉田から伊崎に、ベテランから若手に、命のタスキが受け継がれました。そして、映画を通して、彼らから自分も命のタスキを受け取った(と感じた)観客も少なくないはずです。糸井重里氏もそのひとりだと思います。
ただし《シン・ゴジラ》と同様で、目の前の破滅的な危機はなんとか乗り越えたけれど、問題は解決していない。福島の人たちもずっと避難生活が続いて苦しむという現実がありますから、感動の爆発とはいかないのですよね。







