――お笑いの世界に飛び込んだのは、『だいじょうぶだぁ』が最初なのですか?
よくそう思われるんですけど、実は違うんですよ。バンド時代から、『テレビほとんど冗談』(1982年/テレビ東京)とか、『マンガチョップ84』(1984年/フジテレビ)なんかで、バラエティー番組に出演していたんです。
それに、バンドの中でいちばん早くピンでバラエティーに出演したのも、実は僕なんですよ。堺正章さんが司会の歌番組で、「ジャンケンマン」というキャラに扮して、商店街を練り歩くロケをしていました。スタジオの堺さんと一般の方がジャンケンをして、勝ったらお店の宣伝ができるっていう。
――バンドとして売れている時期に、バラエティーに出演することに抵抗はなかったのですか?
いえ、まったく。レコード会社は「ちょっとイメージ的に……」みたいなのもあったんですが、事務所の社長が「やりたいんだったら挑戦してみろ」って。ドリフもそうだし、クレージーキャッツの皆さんだって音楽もやるし、お笑いもやられていた。僕自身、そういうエンタメ志向が強かったので、機会をいただけたのはありがたかったですね。
アイドルも新人も…共演者を育てた
志村けんの「お笑いリーダー術」
――ドリフのいかりや長介さんは「会議が長い」ことで有名ですが、弟子筋にあたる志村さんは、どうでしたか?
いや〜長いよね(笑)。週に1回、志村さんとブレーンの作家さん、あと僕らのような共演者が中心となってネタ会議をしていました。テレビ局の大きなリハーサル室の真ん中に畳が敷いてあって、作家さんが書いたコント台本を読むんです。
その周りにスタッフさんが大勢座っているんですが、シーンと張り詰めた雰囲気。昼頃から始まって、夜中近くまでその状態が続くもんだから、途中から「あぁー早く飲みに行きてぇ」って思うときも正直ありました(笑)。
――志村さんが口を開くまでは、だれも発言されないような雰囲気ですか?
積み上がった台本を読んで、一瞬で却下という場合もあるし、じーっと考え出すと1時間ぐらい沈黙するから、口を挟めないんですよ。要するに、志村さんって台本に書かれた活字だけで判断するのではなくて、どんなセットにしてどんな音楽をかけてっていうところまで考えているから、そのハードルを越える台本って、なかなか無いんですよ。だから、採用率はかなり低かったと思いますよ。
結局そこから10本か20本ぐらいをキープしておいて、残りの数日で志村さん自身がネタを膨らませたり、セットや音楽のことを決めていくんです。







