学校の授業で学ぶ歴史には、偉人たちの輝かしい功績や「すごい」エピソードが数多く登場します。しかし、どんな人物にもそれだけでは語れない一面があります。歴史をひもとくと、「すごい」人の中にも、思わず目を疑うような「やばい」行動や選択が、数多く記録されているのです。
そんな「すごい」と「やばい」の両面から、日本史の人物のリアルな姿に迫るのが『東大教授がおしえる 超!やばい日本史』。同書より特別に一部を紹介します。取り上げるのは、戦国時代に圧倒的な才能で名をとどろかせ、時の権力者たちに重用されながらも、その巨大すぎる期待に翻弄された「天才絵師」狩野永徳です。

【悲運】戦国の天才絵師・狩野永徳「秀吉に愛されすぎた」末路とは?Photo: Adobe Stock

ダイナミックな「大画」で戦国武将を魅了する

 室町幕府おかかえの「御用絵師集団」である狩野派の4代目・狩野永徳は、20代で天才絵師として知られるようになりました。

 狩野派は上品で細密な絵を得意としていましたが、かれは「大画(たいが)」とよばれる、高さ2mを超える大きな絵を得意とし、金色を多く使ったゴージャスで力強い作風は派手好きな戦国武将たちに大人気になりました。

 永徳は織田信長や豊臣秀吉といった有名な武将たちに気に入られ、お城やお寺を飾る障壁画をたくさん任されました。

 金ピカの雲におおわれた京を描いた『洛中洛外図屏風』や、筋肉ムキムキのいかつい想像上のライオンを描いた『唐獅子図屏風』は、いまでも多くの人に知られる名作です。

豊臣秀吉に愛されすぎて過労死する

 永徳は働きすぎでした。

 とくに豊臣秀吉に依頼された大坂城の仕事は、知人に手紙で「昼も夜も休むひまなく絵を描いています」とグチるほどの忙しさ

 過労のせいでかれの絵はしだいに生き生きとした魅力を失っていき、そこにつけこんだほかの絵師がかれの仕事を横取りしにきました。

 永徳の「大画」スタイルをマネたオシャレな絵で人気者になった長谷川等伯が、狩野派が描くことになっていた天皇の御所の障壁画の仕事をうばいにきたのです。

 永徳は「パクり絵師ごときが!」と怒り、猛抗議して仕事を取り返しましたが、その直後、過労とストレスのためか47才という若さで突然この世を去りました。

(本原稿は『東大教授がおしえる 超!やばい日本史』からの抜粋です)