ケガを経て大きく成長する選手が現れるワケ
にもかかわらず、なぜ一流アスリートの中にはケガを経て大きく成長する選手が現れるのだろうか。
理由のひとつは視点が強制的に転換される点にあるだろう。
若い頃は身体能力だけで相手を圧倒していた選手が、ケガの後には判断力やポジショニングで勝負するようになる。攻撃一辺倒だったプレーヤーが、長期離脱中に別ポジションの動き方を分析したり吸収したりすることで、ゲーム全体を俯瞰的に捉えられるようになる。スタンドやベンチから試合を見続けることで、ピッチ上にいたときには見えなかったゲームの構造が、初めて立体的に感得できたという選手も少なくない。
身体が使えない時間の中で、選手は身体以外の能力を磨かざるを得なくなる。
ケガが促しているのは単なる回復ではない。競技理解そのものの再構築であり、プレースタイルの非線形な進化である。一直線に順調であり続けたならば、決して得られなかった視野がその過程で生まれるのだ。
ここには、より深い認識の問題が潜んでいる。人は順調なとき、自分の能力と、自分がその環境に最適化されていたという事実をほぼ無意識のうちに混同する。
自分が強かったのは、その環境や役割、その時代に適合していただけかもしれないという可能性を成功が続く限り人はなかなか考えない。
ケガはその混同を強制的に解体する。外から試合を見て初めて、自分のパフォーマンスの一部は、ピッチに立ち続けられていたこと自体に支えられていたと気づく選手がいる。それを認めるのは本人にとってつらい経験だが、同時に、本当の意味での自己理解の出発点でもある。
ビジネスパーソンにとっての「ケガ」とは何か
この構造はアスリートだけのものではない。長いキャリアを歩むビジネスパーソンにも、極めて似た現象が静かに起きている。
一般の会社員は、スポーツ選手ほどシビアな状況には置かれていない。ケガをした翌日に外されることも、突然の契約解除も通常は起こらない。
しかし、それでも長いビジネス人生の中では、大きな失敗、評価の急落、不本意な異動、メンタル不調による長期休職、AIの台頭による役割の変質、組織再編による自部門の縮小・廃止といった出来事が、自分が価値を出していた文脈を根本から揺るがすことがある。
これらが、一般の社会人にとってのケガに相当する断絶体験である(ケガや失敗などのような否定的な意味合いのものではない、育児休暇や介護休暇などによる一時的な戦線離脱も断絶体験に含まれるだろう)。
しかもビジネスパーソンの場合、スポーツのように明確にポジションから外されるわけではない点が、ある意味でより厄介だ。席はある。給料も出る。誰も露骨には否定しない。しかし会議で意見を求められなくなり、重要情報から外れ、気づけば若手が自然に主導権を握っている――。
まだ所属しているのに、じわじわと中心から外れていく感覚は、露骨な排除よりも人を消耗させる。人は常に自分が必要とされていることを周囲の状況から確認しようとするからだ。







