カーライルは学者ではないが哲人で独自の思想をもつ奇才であった。その文章は難解でイギリス人すら難解であると歎じたほどである。

 明治の英学生がどれくらいカーライルを読みこなせたか、わからないが、新渡戸の英文著書『武士道』は、その文がしっかりしている点でも海外で高く評価された。

 カーライル張りの英文ながら、しっかりした文章力は反復読書によって身についたものであろう。しかしこれは例外。普通の人間には真似ができない。

繰り返し読んでも
わかった気になるだけ

 読書百遍、意自ら通ず、ということばがある。いくら難解な文章でも、繰り返し読んでいれば、だれに教わることがなくても、自然に意味がわかるようになる、ということを言ったものである。

 この百遍というのは文字通りの百遍、99回目の次ということではない。多いということの誇張である。新渡戸のカーライルもりっぱに百遍読書である。

 わからない本でも何度も何度も読んでいれば、本当に、わかるようになるのか。昔の人はのんきだから、そんなことはセンサクしない。

 本当にわからない本でも、百遍読み返したら、わかるようになるか。ためした人はなかっただろうが、わかる、のではなく、わかったような気がするのである。

 自分の意味を読み込むから、わかったような錯覚をいだく。読み返すたびに、読者のもち込む意味が増える。

 そうして、ついには、自分のもち込んだ意味ばかりのようになる。それをおのずからわかったと思い込む。対象の本を自己化しているのである。

 自分の意味をまるでもち込めないような本は、百遍はおろか、一度の通読もできない。はじめのところで、投げ出してしまう。

 とにかく、何度も読めるのは、どこかおもしろいからである、なにがおもしろいか、といっては自分の考えを出すことほどおもしろいことはない。わからないところを、自分の理解、自分の意味で補充するのである。一種の自己表現である。

 隅から隅まで、わかり切ったことの書かれているような本では、こういう読者の参入はあり得ないから、たいへんつまらない。