ナメるように読んだ本が
良書とは限らない
こんな風に考えてくると、読書百遍、意自ずから通ず、というのはフィクションであり、神話であることがわかってくる。
意味がわかるようになるからといって、同じ本を繰り返し読むことが賢明であるかどうか、疑問になってくる。
本が少なく、良書とされるものが多く、読者に時間があるとき、読書は価値ある活動である。同じ本を反復、精読するというのが賞賛すべきことになるのである。
本があふれるようにあって、時間の少ない人間は、“ナメるように読む”といったことを想像することはできない。
巻末までたどりつけない本が手もとにゴロゴロしているのに、いくら、意味がわかるようになると言われてみても、百遍はおろか、二度繰り返し読む気をおこす本はまず存在しない。
“ナメるように読む”はかつては、よい読み方とされていたが、だんだん、そうでなくなっている。
いまはむしろ速読に人気がある。10分間で1冊読み上げる法などを言いふらしている向きもある。そんな本なら、いっそ読まない方が世話がない、とは考えないところが、かわいい。
読書百遍が神話なら、10分間読書は新神話である。
神話は生活を変えない。
生活は神話にとらわれない。
本がありあまるほど出て、読む人がそれほどにはふえないときに、神話の出る幕はないのではないか。
これほど本が多くなったら、良書より悪書の方が多いと思わなくてはならない。悪書にひっかかるのを怖れていれば、本など読めるものではない。
雑書、俗書、不良本などだって、おもしろいものはあるだろう。おもしろくなければ捨てればいい。
同じ本を何度も読むのは
過食症のようなもの
読者はきわめつきの良書、古典のみを読むべきだというのは窮屈である。そういう価値ある本をもとめて苦労するのは愚かだ。
よさそうだと思ったのが、案外食わせものだった、ということだってあるが、それでも心ある読者ならなにかしらを得ることはできる。
読者が本の家来になるのではなく、年下の友人であるという自己規定をすると、たとえつまらぬ本でも、なにがしかの発見は可能になる。
いろいろな点で、読者は著作者より劣っていることが多いけれども、著者はつねに一方的に号令をかけ、命令するような権威者と考えるのは宗教的読書で読者にとって得るところは少ないと考えてよい。
多くの本を読んでいれば、繰り返し読みたくなる本にめぐり会うかもしれない。しかし、それは例外的だと考えた方がよい。実際に何度も繰り返して読む本が5冊か7冊もあればりっぱである。
本は読み捨てでかまわない。
『乱読・乱談のセレンディピティ』(外山滋比古、扶桑社)
本に執着するのは知的ではない。ノートをとるのも、一般に考えられているほどの価値はない。
本を読んだら、忘れるにまかせる。大事なことをノートしておこう、というのは欲張りである。心に刻まれないことをいくら記録しておいても何の足しにもならない。
書物は心の糧である。
いくら栄養が高いといって、同じものばかり食べていれば失調を来たし、メタボリック症候群になる。過食は病気の引き金になり、ストレスを高める。ストレスがいろいろな病気の原因になることを、おそまきながらこのごろ医学も気がつき始めたらしい。
本についても、過食は有害である。知的メタボリックになる読書があり得る。同じ本を何回も読むなどということは、考えただけでも不健康である。







