神田にとって「渡りに舟」の誘いだった。1964年(昭和39年)、23歳の頃のことだ。
神田は友人に連れられて浦和市(現・さいたま市浦和区)の「浦和天清」(現在は閉店)を訪ねた。浦和市は当時、県庁所在地(2001年〈平成13年〉に大宮市・与野市と合併して、さいたま市となる)だった。
店は個人経営の小さなラーメン店(町中華)だが、店主の作る中華料理が味がよいと評判で、市役所、警察署、白バイ隊など大きな得意先がついていて、売上の多くを出前で稼いでいた。出前が忙しすぎて、なかなか人が定着しないのが泣き所であった。出前用の配達車が「蕎麦屋の小僧が乗るオートバイだ!」というコンセプトで設計開発され、大ヒットしていたホンダスーパーカブC100であった。
神田はラーメン屋の出前で、ホンダの工場で作っていたスーパーカブと出会った。神田は、岡持ちにラーメン、餃子、チャーハンなどを載せて市役所や警察署、白バイ隊に出前に行った。
ラーメン屋の仕事で
一番ビックリしたこと
神田がラーメン屋で一番ビックリしたのは、現金商売であることだった。これまで20以上の職場を転々としてきたが、自分が出前に行って、その場で現金をもらい釣銭を渡す商売は初めての経験だった。
「何しろ村一番の貧乏家に育ち、現金にあまり触ったことがなかったので、現金のやり取りは新鮮でした。出前に行くとラーメン、餃子、チャーハンなど、一品一品分の現金を受け取り、釣銭を渡します。品数が多いと、現金バッグは1000円札や100円玉、10円玉など現金でいっぱいになります。
自分のお金ではないけれど、現金商売の面白さに目覚めました。一方、仕入れは毎朝、スーパーカブでキャベツやニンジン、もやしなど野菜や肉などを、市場に仕入れに行きました。
朝仕入れた食材はその日、出前や店売りで、夜には全部現金化されます。それなのに仕入れは全部ツケで、支払いは1カ月先でいいのです。これは今でいうキャッシュ・フローが非常にいい商売で、ラーメン屋は儲かるぞ、と確信しました。その気持ちが固まったのは店に入ってから3カ月ほどしてからのことです。
店主の了解を得て厨房に入り、中華鍋にあらかじめ教わっていた食材投入の順番、調味料の割合など、見よう見まねでチャーハンを作ったのですが、これが案外うまくできました。
餃子を巻くのも6カ月ほどでできるようになり、経験を積めば、もっとちゃんとしたものができる。その時『ラーメン屋をやろう!』と決めました」(神田)







