教養のある家庭で育たないと
社会の壁を突破できない
子どもは、周囲にいる大人の行動や態度から日々学習しています。周囲の大人が口にする何気ない言葉、行動、態度を、子どもはよく観察しているのです。そして、それを愚直に内在化させてゆき、朱に染まるのではないでしょうか。子どもは大人からすると評価の対象です。しかし、一方で、大人は子どもから評価されています。評価の対象と対象の評価は、不可分なのです。
組長の妻、家庭に出入りする姐さんや若中たちは、子どもに優しく接します。しかし、彼らの振る舞い、行動、会話からの学習が、我々の慣習的な社会で「プラスに評価される」かというと、決してそうしたレベルにはありません。
アメリカの社会学者、アルバート・K・コーエンが提唱した「中流階級のモノサシ」という概念があります(Cohen, Albert K. Delinquent boys:the culture of the gang, Free Press, 1955)。これは、学校や職場で学生や従業員を評価する際に用いられるものです。学力テストといった評価手段とは別物であり、普段の立ち居振る舞いや行動を、このモノサシに照らして評価するのです。
我が国では、それは「内申書」「勤務態度」「人事評価」などという形で、教員や上長によって測られています。ここで、一定以上プラスに評価されるためには、その評価者と同等、あるいはそれ以上の資本を有する家庭の薫陶を受けている必要があると考えます。
子どもの頃は、腕っぷしが強い、抜け目がないなどの地アタマがあれば、ガキ大将として、人の上に立てる場合もあります。しかし、多くは、10代の半ばに、高校受験という最初の社会の壁に直面します。教養も知識も持たず、先生の評価が高くない(内申書が低い)ままでは、この壁を超えることは至難です。
実際、ヤクザの子どもたちは、否応なく「人生で成功するチャンスのない細い道」に追いやられるのです。そうすると、彼らは資本の再組織化を図ります。道徳や順法精神は軽視され、彼ら独自のルールが再構築されます。







