ひめゆり学徒隊への動員
16歳のある夜10時ごろ、突然先生たちから「すぐ準備して校庭に集まれ」と告げられる。歌を歌いながら南風原陸軍病院へ向かった。「皆、生きて帰るつもりでした」――ラジオや新聞で「神国日本は一度も戦争に負けたことがない」と教え込まれていたため、誰も死ぬとは思っていなかった。
病院では砲弾が24時間やまない中で看護活動にあたり、水汲み、飯揚げ、切断された手足の運搬など、壮絶な3ヶ月を過ごす。同学年の学友211名が10代のまま命を落とした。親友のやす子さん、みっちゃん(仲里光子さん)も戦場で亡くなった。1945年6月21日、彼女は米軍に収容される。
戦後と証言活動
あまりにも辛い体験から、終戦後30年以上にわたり、ひめゆりの塔にも行けず、慰霊祭にも参加できなかった。小学校教師として働きながら、生徒にもひめゆりの話を一切しなかった。「忘れようとしたことが、戦争の風化を招いた」――40年後に戦場跡を訪れ遺骨の山を目にして、深く反省したという。
59歳のとき、ようやく体験談を語り始める。
この講演を聞いた当時の学生も、自分と年が変わらない普通の高校生が、突然戦争に巻き込まれ、今までと全く違う悲惨な体験をすることになったことを、等身大の出来事として受け止めざるを得ず、生徒の感想にもその心の動きがよく書かれている。
私自身は、正直辛かった。宮城氏と知華がどうしても重なり合う。
戦争体験と比べてはいけないかもしれないし、たくさんの死を目の当たりにした宮城氏と、実際に命を失ってしまった知華と、その親の私とで立ち位置もそれぞれ違うとわかっていても、胸に釘を打ちつけられる思いだった。
13歳でひめゆり学園に入学して、英語が好きで、友達と笑って、くだらないことでおしゃべりして、何の疑いもなく幸せな毎日を送っていた。それが16歳で、突然終わる。知華も12歳で同志社国際中学に入学して、普通に楽しい毎日を送って、それが17歳で突然終わってしまった。







