「食べ物を残すと地獄に堕ちる」
泣きながら口に詰めて食べる子も

 そんな波野村での生活も長くは続かなかった。村との訴訟の結果、オウムは約9億2000万円の和解金を得て、波野村を離れることになったのだ。子どもたちも上九一色村にできた第10サティアンに移ることになった。次々に信者が波野村を離れていった結果、波野の施設は次第に荒れ果てていった。末期の波野の状況を知る加奈さんは「雨漏りがして廃墟同然だった。第10サティアンよりもひどかった」と記憶している。

 少し遅れて上九一色村の第10サティアンに移った加奈さん。そこは巨大な倉庫のような建物だった。ここでももちろん、母親とは離れ、子どもたちだけで集団生活を送っていた。加奈さんの記憶では、第10サティアンに移った最初の頃は、外で遊ぶことも許され、シャワーを浴びる時間もあったという。食事も缶詰のカレーや大豆のハンバーグなどが配られ、量も種類もあった。

 ところが、次第に生活状況は悪化していった。外で遊ぶことは固く禁じられ、カビが生えたそばやまんじゅうが出されるようになったのだ。今から思えば、教団内で武装化が進み、騒然としていた時期と重なる。隣に第7サティアンができてからは、特に外出制限は厳しくなり、食事の内容も悪化した。

 加奈さんもカビが生えたそばを食べた記憶がある。

「カビが生えたそばが、いちばん食べ物の中ではきつかったです。すするよりは食べやすいだろうと思って、団子にして食べようとしました。でも、結局カビが凝縮して、かえって食べにくい。私はずっと手をつけずにやり過ごして、こっそりベッドの端っこに隠して捨てていました」

 食事は「お供物」と呼ばれ、一度祭壇に上げてから食べることになっていた。湿気が多く、窓の少ない第10サティアンでは、わずかな間に腐ってしまうことがしばしばあった。もちろん、食べ物(供物)を捨てることは許されない。お世話係の大人に見つかれば、厳しく怒られる。それにオウムでは、食べ物を残すと地獄に堕ちる――と刷り込まれていた。泣きながら口に詰め込んで食べる子もいた。

ゴキブリだらけの不衛生な環境で
粉ミルクをこっそりなめた

『オウム真理教の子どもたち』書影オウム真理教の子どもたち』(NHK「クローズアップ現代」取材班、集英社インターナショナル)

 教団の厳しい食糧事情の中で、例外もあった。自ら食べることのできない乳児たちだ。加奈さんは第10サティアンの中に、生後間もない赤ちゃんがいたことを覚えている。加奈さんたちは、赤ちゃんの寝室に時折忍び込んだ。そこには粉ミルクが置かれていたからだ。甘いものに飢えていた子どもたちは、その粉ミルクを盗み、こっそりとなめていた。「あまり外のものを食べられないんですけど、粉ミルクはすごくおいしかった」と、加奈さんは今でもその味を忘れられない。

 毎日、同じ服を着て裸足で走り回り、床は汚れた。トイレは水洗ではなく、建設現場に置いてあるような簡易トイレだった。用を足しにいくと、たまった汚物が底に見えた。臭いもきつく嫌だったが、我慢するしかなかった。

 ベッドまわりや道場など、あらゆるところにゴキブリが出てくるのは当たり前だった。教義で殺生を禁じられていたため、叩いてつぶすわけにはいかなかった。「ゴキブリの種類がわかる程度には、詳しくなりましたね」と加奈さん。空き瓶にゴキブリを集めて、定期的に外に逃がした。

 ネズミもいた。夜、ベッドの上をカサカサと音を立てて走っていく姿を見たのは、一度や二度ではない。オウムの外で暮らしていたときは、風呂は当たり前に入っていたが、この生活環境に次第に慣れていった。