とりわけ教師は、異質さを認めたり、違和感と共に過ごしたりすることに相当苦労するかもしれません。なぜなら、これまでの学校文化では「そろった状態」や「整った状況」こそが高い指導力の象徴のように捉えられてきたからです。
いわば、みんなに同じ程度のものを求める「同質性」を前提とすることで、これまでの指導はどうにかして成立してきたところがあります。「学校は集団生活の場である」ということを前面に押し出し、「全体に合わせる」ことを半ば強引に子どもたちに求めることで教育活動を成立させてきたとも言えます。
しかし、もはやこの考え方そのものが、自身の首を絞めるような結果をもたらしています。この考え方からいち早く脱却できない教師ほど、いつまでも「私たちは正しい」「悪いのは子ども」という被害者意識が抜け出せません。「わがままな子ども」や「身勝手な親」のせいで被害を被っているという言い方になってしまうのです。
『教師の流儀2 「教師であり続ける」が難しい時代を生きる』(川上康則 エンパワメント研究所)
一方、多様性は「差異」を前提とします。「自分らしさ」が尊重される一方で、他者の「その人らしさ」も同じように受け入れていく必要があります。
個々の教師が持つ価値基準とは大きくかけ離れた子どもの「その子らしさ」を受け止めようとするとき、従来の表面的な「そろう・整う」に固執する指導は、多様性の推進において大きな妨げになります。
そこで提案したいのが、そろえるべき対象の見直しです。表層ではなく、内面の意識や理念をそろえるという考え方に立つようにするのです。
多様性を認める教室において、そろえる対象としたいのは一人一人が自分らしく過ごせる安心感であり、かつ異なる立場の相手と場を共にする共生の理念です。これは、従来の学校文化を根底から覆すほどの重大な価値観の変容だと言えるでしょう。







