社会全体を「学びの場」
と捉えてみる

 一方で彼は「脱学校化」というアイデアを主張します。学校という制度に人間の学びを独占させてしまうこと自体を批判したのです。なぜなら、学校は子どもを年齢や成績で序列化し一定のカリキュラムを一律に与えることで、学びを本来の豊かさから切り離してしまうからです。

 脱学校化によってイリイチが提案したのは、社会全体を「学びの場」と捉えることでした。図書館や博物館、職人の現場、自然そのものが学びの資源であり、人びとが自由にアクセスできるようにすべきだと考えたのです。

 さらに彼は、学びたい人と教えられる人をつなぐ「学習ネットワーク」を構想しました。これは今日のオンライン学習や市民大学、市民活動にも通じる考え方です。こうしたネットワークがあれば、学びは学校に限定されず、年齢や職業を超えて広がっていきます。

 僕は学びを学校に限定しないというイリイチのアイデアに賛成しています。ただし、学校そのものが悪だとは考えていません。イリイチの議論はしばしば「学校否定」として受け取られがちですが、現実には学校と呼ばれる場の中にも「脱学校的」な学びの空間はありえますし、逆に学校の外にある学びの場にも「学校的」な要素が潜んでいます。

 重要なのは、イリイチが批判したのは学校そのものではなく、学校における「評価の眼差し」によって学びが本来の豊かさを失ってしまう点だ、という点です。

 僕自身にも思い当たる経験があります。例にもれず、僕は学校が大嫌いでした。イリイチの言うように、そこは「評価されること」を前提に成り立っている場だと感じていたからです。

 イギリスの哲学者ジェレミー・ベンサムが考案した監視施設「パノプティコン」は、中央からすべてを監視できる仕組みを持ちますが、僕は小学校のころからまるでその中に入れられているような思いで過ごしていました。

 そして今もなお、社会全体がパノプティコンのようだと感じています。人びとが「社会的価値を持たなければ存在価値がない」と思い込むよう仕向けられ、その信念によって社会が維持されているように思うからです。