もちろんふざけてはいない。たとえこちらが大真面目であろうとも、教員や上司に、不真面目だ、ふざけている、と言われ続けると、だんだんこちらが怠けているのではないか、自分がおかしいのではないか、とそう思えてくる。人は影響される生き物であるらしい。

「なんでわからないんだ?」
私が感じた学校の息苦しさ

 かのA・アインシュタインですら、「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションである」というから相当なものだ。だが、ホモ・サピエンスという種族の発展は共感力と社会性の賜物である。社会性なしには人間社会はここまで発達できなかったとも言える。この能力が良いか悪いか、そう簡単に割り切ることはできない。物事には全て二面性がある。この性質に、善悪の概念を当てはめるのは不毛であろう。

 こういったコミュニケーションスキルの欠如に対しては、学校とも何度か話し合ったのだが、先生たちからの理解を得ることは難しかった。むしろ、問題を起こした後で「幸一は頭が良いから、そんなことしたらこういうことになるってわかってるはずだろ。なんでわからないんだ?わからないふりをしても無駄だぞ」と何度も何度も叱られた覚えがある。どうやら彼らは頭の良さや理解力の高さと社会性やコミュニケーションスキルが比例すると思っているらしいのだが、自分の経験に鑑みるに、この2つは別の能力なのである。

 実際のところ、私が感じたのは、ハナから相手を理解しようとしない教師たちによる拒絶と、それによる学校の息苦しさであった。

AI時代に問われる
日本の教育モデル

 だが、日本の現在の平均的な教育モデルでは生徒がネガティブに影響されてゆくことはほとんど宿命に近いものと思える。先生は良いところを進んで褒めようとはせず、むしろ足りない点を叱ることが多い。

 どちらか1つを選ぶならば、むしろポジティブな言葉を浴びせかけたほうが良いのではなかろうか。自信過剰になるリスクはあるが、少なくとも自信を失い、鬱などになるリスクは低くなるだろう。

 ロボットまがいの画一化された人間を大量生産する意義はもはやかつてほどのものではない。AIが台頭してゆく現在、我々は平均的な人間の生産に全力を傾けることに意味を見いだせなくなりつつある。日本の学校は、教育は、静かに、そして確実に、時代の狭間に取り残されつつある。そのとき、恐竜でいるべきなのか、それとも空を飛び回る鳥になるべきなのか、我々は今問われているわけである。

 当の本人は全く覚えていないのだが、昔は予想外のことがあるとびっくりしてパニックになり、泣き叫んだりしていたらしい。今は、予想外のことが起こると、同じようにびっくりはするが、どちらかというと困惑する。物事が自分が予想した通りにならないと、頭にクエスチョンマークが浮かんで、その後に何が起こるかをまるでパソコンがごとく全力でシミュレーションし始める。

 納得がいく見通しを思いつくと、カーソルが砂時計からいつもの45度左に傾いた矢印に戻る。シミュレーションしなくてもできる回答や無難な振る舞いを準備できれば、それを実行できるのだが、そうでない場合には、事後シミュレーションに全力を注いでしまって、外から見るとフリーズしているように見えるらしい。まるで古いコンピューターのようにフリーズして「待って」の一言を返すような余裕もないわけだ。