辻村國弘プロデューサーと相談して、とにかく航空機かジェットヘリで現地入りしよう、選択肢のなかでは自衛隊ヘリに同乗するのが一番早いのかな等々と思案しながら、赤坂の筑紫さんの自宅に迎えに行った。

 筑紫さんも早朝からテレビをみていた。現場に行くことに躊躇はなかった。

「どんな服装で行けばいいかな。いつものコートでいいよな」

 筑紫さんはそう言った。

「いいと思いますよ」

 わざとらしく防災服のような格好で現場入りすることに抵抗感があったことを僕は記憶しているが、このことが後日意外に大きな問題に発展するとは思いも寄らなかった。

現場で拾い集めた生の声が
編集で切り貼りされてしまう

 当時つけていた日記の記載によれば、1月17日に現地入りした僕は1月29日に自宅に戻っている。その日、こう書いていた。

〈今回の取材ほど後悔の残るものはない。〉

 同じ思いを筑紫さんも抱いていたに違いない。その日の夕方、ある場所で僕は偶然にも筑紫夫妻と遭遇し、そのまま夕食をともにすることになった。筑紫さんは相当に苛立っていた。そしてその場でこう口にした。

「僕はもうテレビをやめようと思っている」

 それは本音だった。本当にそう思っていた。すでにその頃は筑紫哲也といえば、日本を代表するテレビニュースの顔だった。だがその矜持というか自信が揺らいだのだ。

 今から冷静になって考えてみれば、阪神・淡路大震災という出来事があまりにも巨大で、筑紫さんのやれることは限られていた。筑紫さんはもともと、切ったはったの事件記者的な仕事が適任とは言い難いところはあったが、それでも戦場取材もこなしてきた経歴があった。だが、阪神・淡路大震災の場合は、テレビというマスメディアのなかの一個人は圧倒的に無力であった。

 それを自覚していたが故に、現場では一人ひとりの被災者の声を丁寧に拾い歩くことに徹しようと思うと宣言してそれを実行した。だが実際に限られたテレビの時間の中で放送されたものは切り刻まれた断片でしかなかった。取材した現地と編集する東京との間の温度差や切迫感の違いもあっただろう。