1995年1月17日、黒煙が上がる神戸市1995年1月17日、黒煙が上がる神戸市 Photo:Kurita KAKU/gettyimages

阪神・淡路大震災の被災者の家族であり、当時大学生だった妹をがれきの下で亡くした筆者の実体験を振り返りながら、地震と報道について考えます。【前後編の前編】(著述家/公共政策博士 山中俊之)

阪神・淡路大震災で感じた情報過疎

 1月17日の朝5時46分、兵庫県西宮市にある阪神・淡路大震災の慰霊碑の前で、能登半島地震を含むこれまでの数多くの震災被災者を思い、手を合わせた。

 能登地震から1カ月が経過しても、自宅に戻ることができない人や、二次避難を選択した人が大勢いる。亡くなった方々へお悔やみを申し上げるとともに、現在も厳しい状況にある方に心よりお見舞いを申し上げたい。

 私にとって地震は決して他人事ではない。阪神・淡路大震災の被災者の家族であり、当時大学生だった妹をがれきの下で亡くしているからだ。

 1995年1月17日の大震災発生時、私はサウジアラビアのリヤドに駐在していた。早朝、CNNのニュースで「日本で大きな地震が発生」との一報を見て驚愕(きょうがく)した。

 神戸市など兵庫県南部各地の、がれきの山や火事の映像は強烈だった。現地の様子をもっと知りたいと思っても、それがかなわない。今と違って当時のサウジアラビアでは、日本のテレビ番組の視聴はできず、インターネットも簡単に使える状況ではなかった。

 何が起こったのかよく分からないまま数時間が過ぎた。西宮市の実家の電話は通じない。関西はもちろん、東京をはじめ日本のありとあらゆる友人・知人に電話したが、「日本国内の電話は混乱しておりつながりません」という自動音声が流れるだけだった。

 半日以上たってようやく、ある知人と電話がつながった。実家が全壊したこと、がれきの下敷きになり妹が死亡したことが分かった。

 急きょ帰国し、1月19日、成田空港から電車を乗り継いで大阪入りした。大阪は、さほど被害を受けておらず、震災から2日で人々が通常に近い生活に戻っているように感じた。

 しかし、兵庫に入ると徐々に風景が変わった。武庫川を越えて、西宮市に入ると全壊している家屋が目立つ。少しの距離の違いが大きな被害の差になっていた。現地に行かないと実態が分からないことは多い。当時は新聞やテレビ、ラジオのニュースが頼りであり、ともすれば「情報過疎」の状況に簡単に陥ってしまう時代だった。

 実家は全壊だった。両親と弟は親戚宅に避難しており、私もそこで3週間滞在して妹の葬儀やがれき処理、必要な家財の取り出しなどに奔走した。

 妹は即死だったようだ。がれきから遺体を取り出す作業も大変だった。近隣の企業独身寮に住む若い人たちが率先して助けてくれた。差し入れや支援物資もたくさん届き、無料で食事ができる場所もいくつかできた。お互い大変な状況ながら、いろんな形で助け合い、励ましあった3週間は、人間が集団で生きる意味というか、本来のあるべき姿を見たように感じた。

 一番大変だったのは妹の火葬だ。6000人以上が亡くなって、阪神間の火葬場はどこも空いていなかった。寒い季節だったので遺体が腐敗しなかったことが不幸中の幸いとでもいうべきだろうか。1週間以上、妹を親戚宅で見守り、ようやく大阪府堺市で荼毘(だび)に付すことができた。

 記事の後編では、報道への違和感、私が実際に受けた取材への不快感から、震災報道の在り方について考える。

>>後編『マスコミが勝手にストーリーを作る不快感…妹を亡くした遺族だから思う、震災報道はアップデート必須だ』に続く

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