詰め寄る取材陣写真はイメージです Photo:PIXTA

記事の前編『能登地震でよみがえった29年前の記憶…がれきの下で妹を亡くした阪神大震災で感じたこと』では、阪神・淡路大震災の被災者の家族であり、当時大学生だった妹をがれきの下で亡くした私の実体験を振り返った。後編では、報道への違和感、私が実際に受けた取材への不快感から、震災報道の在り方について考えたい。【前後編の後編】(著述家/公共政策博士 山中俊之)

>>前編『能登地震でよみがえった29年前の記憶…がれきの下で妹を亡くした阪神大震災で感じたこと』から読む

被災者目線ではない報道への違和感

 阪神・淡路大震災が起きた1995年1月からしばらくの間、新聞やテレビは朝から晩まで震災一色となった。兵庫県南部地域の地図と被災状況が頻繁にテレビに流れていたのをよく覚えている。

 当時、「同じ規模の地震がもし首都圏で起きたらどれほどの被害になるか」というテーマを、新聞やテレビが繰り返し取り上げていた。しかし、しばらくしてそれが「東京目線である」と批判の的になった。確かに、被災者は必死の思いで生活しているにもかかわらず、何の被害もない東京のスタジオでコメンテーターらがいぶかしげに、ああでもないこうでもないと語る様子には違和感を覚えた。

 それ以上に私が違和感を覚えたのは、「徐々に電車やバスも通るようになりました!」と、アナウンサーが明るく笑顔で発言することだった。確かに、復興は望ましいことであり前向きなトーンで報じるのも分かる。しかし、自宅が揺れて物が落ちた程度の被害の人と、肉親を亡くした人とでは、感じ方・受け止め方が大きく違う。

 肉親を亡くしている立場としては、どうしても違和感が拭えなかった。「いくら町が復興しても、亡くなった人は二度と戻らない」と思ってしまった。