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2011年3月11日の東日本大震災による津波で新聞発行が困難となり、壁新聞で被災者に情報を届け続けた宮城県石巻市の石巻日日新聞。逆境の中でも報道を諦めなかった姿勢は国内外から反響を呼んだ。震災発生から15年がたち、今では発行部数が震災前と比べて半分以下に落ち込んだ。壊滅的な被害を受けた被災地の地域新聞は、それでもメディアの未来を諦めていない。連載『メディア興亡』の本稿では、同社の近江弘一社長が苦難に対していかに立ち向かったかを語ってもらった。(聞き手/ダイヤモンド編集部 猪股修平)
役員就任1期目で経常黒字を実現
震災発生の前年に巨額の設備投資をしたが…
――今年は近江社長が石巻日日新聞社に移って丸20年になります。
もともとはマリンスポーツのウエットスーツを手掛ける会社に勤めていました。石巻日日新聞で専務だったおやじが他界し、当時の役員たちが「つぶれそうだから(来てくれ)」と声を掛けてくれたんです。
おやじがいた会社だから、私もここで育ててもらったようなものです。恩義があります。ずっと同じ仕事をしていて「人生を変えたい」と思っていたタイミングでもありました。残りの人生を地域貢献にささげようと、日日新聞の財務再建に着手する形で2006年に取締役総務局長として加わりました。
私が来たときには「もう会社を畳もうか」という段階まで来ていたらしく、財務状況を見ると確かに「やばいな」と感じざるを得ませんでした。ずっと赤字でしたからね。だから翌年には経営改善計画を掲げました。
――経営改善策にはどのようなメニューがありましたか。
端的には「使っていないものを捨てろ」という判断を下しました。そして、工程管理と効率化を進めました。例えば印刷担当は新聞印刷にかかる時間が実質1日2時間くらいしかありません。ですので、残りの5時間は別の仕事に取り組めばいいと、多能工として仕事ができるようにしました。
社員たちが頑張って計画を実行した結果、07年3月期から3期連続で経常黒字化を達成しました。
財政的には立ち直ったのですが、今度は新聞を印刷する輪転機の寿命が来ました。当時の輪転機はモノクロ印刷しかできなかったんです。「今更モノクロのものを新たに導入するのもなあ」という話になり、当時の社長が「もう年も年だから自分で(投資のための)はんこを押したくない」と私に社長の席を譲ってきたんです(笑)。それが09年のことでした。
日日新聞は売上高が2億2000万円ほどしかない小さな会社です。それでもカラー輪転機導入のために奮発して2億円くらい借り入れをしたんです。10年1月に紙面のカラー化が始まり、2年後の12年には創刊100周年を迎えようとしていました。「さあ頑張ろう」という気持ちで走り出した矢先に、東日本大震災が起きたのです。
財政再建を果たした直後に襲い掛かった震災で、石巻日日新聞は多くの読者を失い、輪転機も大きな被害を受けた。メディア史上ほとんど類を見ない大きな被害の中、どのように事業を続けたのか。次ページでは近江社長が「まだ新聞を続けられる」と確信を得た瞬間や、震災発生後に始めた新しいビジネスについて語る。







