「総裁選挙が近くなると、リュックサックに札束を詰めて、あっちこっちへ運んでいるんだというようなうわさがありました。……総理の座を、支援団体から集めた金で買ったことになりはしませんか」

「そんなことはありません」

「そんなにまっかになって、おおこりになって大声を出さなくてもいい。人間というのは、ほんとのことを言われるとおこるのですよ、総理」

「あなたもしつこい方ですな。(後援会活動を)私は関知しておらないのです」

 73年3月の、参院予算委員会における青島幸男議員と田中首相との問答を紹介しながら、立花さんは「私たちも青島氏と同じような疑問を持ち、……多くの国民も納得できないと考えて」、それなら「私たちでできるかぎり調べてみて……ありのままを発表」しようと、土地転がしやユウレイ会社を使った資金集めの手口を克明に報告した。

 合法か違法なのか判然としない巧妙な手口で、ただちに刑事事件としての捜査が始まったわけではなかったが、まともなビジネスでないことは誰の目にも明らかな「金権政治」の実態に、世間は衝撃を受けた。そしてこれが自民党内の対立抗争に発展する。

金権政治への批判が
田中を追い詰めていく

 もともと田中さんの金力で煮え湯を飲まされたと考える福田赳夫さんは、好機到来とばかりに田中批判を強める。角福対決の72年総裁選挙の際には反佐藤の立場から田中内閣誕生の一翼を担った三木武夫さんも、本来の「クリーン三木」の看板を掲げ直して「金権政治打破」に転じる。2人は相前後して閣僚を辞任、「三福連合」と称される連携を組んで倒閣運動を展開した。田中さんは内閣改造などで態勢立て直しを図ったが、党内対立は激しさを増すばかりで、結局、退陣に追い込まれた。

 党分裂の瀬戸際とまでいわれた深刻な状況の中で、後継争いの激化を防ぐという名目のもとに、副総裁の椎名悦三郎さんの「裁定」という形で三木さんが後継者に選ばれた。

 田中さんは、少数派閥の三木さんならば、いずれほとぼりが冷めたら簡単に政権から引きずり下ろせると考えたともいわれるが、その目算も狂った。三木政権発足から1年余を経た76年2月4日(日本時間2月5日)、思いもよらぬ大事件のニュースがアメリカから飛び込んできた。ロッキード事件である。