
今回紹介するのは、福沢諭吉の娘婿で、「電力王」と称された実業家・福沢桃介が「ダイヤモンド」1929年5月1日号に寄せた、豊田佐吉の人物評である。日本の産業界に革命をもたらした発明家を、同時代を生きた実業家ならではの視点と、福沢らしい軽妙な筆致で描いた貴重な記録だ。
村人から狂人扱いされながら、両親のへそくりや友人・知人からの借金までつぎ込み、織機の改良に打ち込んだ下積み時代や、義理人情に厚い父の気質を受け継ぎ、太平洋上に島を築いて領土を広げようと夢想した若き日の壮大な空想癖など、発明への執念だけでなく、その内面に宿る並外れた情熱も含め、後世の伝記ではあまり語られない逸話が数多く盛り込まれている。福沢が実業界の人脈を通じて直接見聞きしたからこそ書き得たものといえる。
何より興味深いのは、佐吉の奇癖や家庭内の騒動が具体的に記録されている点だ。何か難しい問題が起きると温泉場へ一人で引きこもり、火鉢のそばでたばこをくゆらせながら食事も忘れて沈思黙考する姿は、宿の女中から怪しまれるほどであったという。
中でも傑作なのが、「西洋人の妾(めかけ)」騒動である。会社から支給される月給500円のうち半分しか家へ入れないことから、妻・お浅は夫に愛人ができたと疑い、「妾がいるなら正直に話してください」と迫る。佐吉は「実は西洋人の妾を置いた」と冗談めかして認めるが、その正体は、会社では雇えなかった優秀な西洋人技師だった。日本の産業発展のため、自らの給料を割いて招いたのである。真相を知ったお浅が、以前にも増して夫を敬愛するようになったという結末は、佐吉の無私の精神と、それを支えた夫婦の信頼を物語る印象的な逸話だ。
福沢はまた、佐吉を「孤高の天才」として描くのではなく、その成功を支えた人々にも目を向けている。三井物産の藤野亀之助による後援、婿養子・豊田利三郎の経営手腕、そして妻・お浅の内助――。現在のトヨタグループの礎が、一人の発明家だけではなく、多くの人々の支えによって築かれたことを示している。
富や名声に執着せず、脳溢血で倒れた後も病身を押して研究に向かう執念を、福沢は「いじらしい」と表現する。佐吉がまだ存命中(翌1930年没)に記された同時代記録であり、後に巨大グループへと成長する「トヨタ」の礎が、かくも泥くさく情熱的な一人の人間によって築かれたことを伝える内容である。(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)
村人から狂人扱いされながら、両親のへそくりや友人・知人からの借金までつぎ込み、織機の改良に打ち込んだ下積み時代や、義理人情に厚い父の気質を受け継ぎ、太平洋上に島を築いて領土を広げようと夢想した若き日の壮大な空想癖など、発明への執念だけでなく、その内面に宿る並外れた情熱も含め、後世の伝記ではあまり語られない逸話が数多く盛り込まれている。福沢が実業界の人脈を通じて直接見聞きしたからこそ書き得たものといえる。
何より興味深いのは、佐吉の奇癖や家庭内の騒動が具体的に記録されている点だ。何か難しい問題が起きると温泉場へ一人で引きこもり、火鉢のそばでたばこをくゆらせながら食事も忘れて沈思黙考する姿は、宿の女中から怪しまれるほどであったという。
中でも傑作なのが、「西洋人の妾(めかけ)」騒動である。会社から支給される月給500円のうち半分しか家へ入れないことから、妻・お浅は夫に愛人ができたと疑い、「妾がいるなら正直に話してください」と迫る。佐吉は「実は西洋人の妾を置いた」と冗談めかして認めるが、その正体は、会社では雇えなかった優秀な西洋人技師だった。日本の産業発展のため、自らの給料を割いて招いたのである。真相を知ったお浅が、以前にも増して夫を敬愛するようになったという結末は、佐吉の無私の精神と、それを支えた夫婦の信頼を物語る印象的な逸話だ。
福沢はまた、佐吉を「孤高の天才」として描くのではなく、その成功を支えた人々にも目を向けている。三井物産の藤野亀之助による後援、婿養子・豊田利三郎の経営手腕、そして妻・お浅の内助――。現在のトヨタグループの礎が、一人の発明家だけではなく、多くの人々の支えによって築かれたことを示している。
富や名声に執着せず、脳溢血で倒れた後も病身を押して研究に向かう執念を、福沢は「いじらしい」と表現する。佐吉がまだ存命中(翌1930年没)に記された同時代記録であり、後に巨大グループへと成長する「トヨタ」の礎が、かくも泥くさく情熱的な一人の人間によって築かれたことを伝える内容である。(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)
平凡な名前の持ち主ながら
名古屋で異彩を放つ傑物
金のシャチホコで名高い名古屋は、その昔61万3500石の城下町、今は人口94万9966人を擁する大都会だが、どういうものか、人物を生ずることが甚だまれだ。せいぜいで、総理大臣になった加藤高明、文部大臣になった田中不二麿、博物学者の伊藤圭介、文学者の坪内雄蔵、それに猛獣狩りの名人として世間にうたわれる殿様、徳川義親侯くらいのものだ。財界の傑物に至っては、ひとしお寂寞を感ずる。
今日、名古屋の千万長者で通っている者を拾い上げると、伊藤次郎左衛門、近藤友右衛門、瀧信四郎、後藤安太郎だが、これらの人物も、中京においては大したものだけれども、日本的にはいかがのものか、ちょっと首をかしげる。
すなわち伊藤は、昔からの富豪がそのままぬーっと大きくなったもの、近藤は亡父の遺産を受け継いで、欧州戦争中に綿糸相場で一当たりしたというだけのこと、また瀧は元々旧家で、一時家運の傾きかけたのを挽回したというに過ぎず、後藤に至っては、株式の思惑でもうけたというのみで、特にこれというほどの経歴はない。
「ダイヤモンド」1929年5月1日号
この間にあって、豊田佐吉という人物――町人か職人にありそうな平凡な名前の持ち主だ、ただ一人嶄然(ざんぜん)異彩を放っているのである。
豊田は、一文なしの素寒貧から今や1500万円の巨産を築き上げ、中京における富豪になったばかりでなく、豊田式織機の発明によって日本の織物界にエポックメーキングの一大革新を与えた。斯界における貢献はけだし偉大のものと言わねばならぬ。






