福沢諭吉の娘婿、相場師から実業家に転じた福沢桃介の半生(上)
 福沢桃介(1868年8月13日~1938年2月15日)は、慶應義塾在学中にその美男ぶりから福沢諭吉の妻・錦と次女・房に見初められ、婿養子として福沢家に入った。もっとも諭吉には4人の息子がいたため家督を継ぐ必要もなく、伸び伸びと才覚を発揮することができた。

 慶應卒業後は北海道炭礦鉄道(北炭)に就職するが、結核(記事中では本人は肺炎カタルと言っている)にかかり静養を余儀なくされるが、その間に「寝ていて金をもうける工夫はないものか」と株式投資を思い付く。日露戦争後の相場で財を成し、その資金を元手として事業家に転身。ガスや電気鉄道、紡績、製鋼など多くの事業に携わった。

 今回は、「ダイヤモンド」1928年3月1日号に掲載された桃介のインタビュー記事だ。当時、桃介は59歳。それまでの半生を振り返っている(69歳で没)。長い記事なので「上中下」の3回に分けてお届けする。「上」では、相場師時代のエピソードが中心だ。

 桃介は自身の勤め先でもあった北炭に投資していたが、そのさなかに北炭株が高騰し始める。北炭はそれまでもしばしば買い占め事件の対象となってきた銘柄だ。相場で勝つには、買っているのは誰か、いつ売り始めるかを見極めなければならない。桃介は三井が買い占めの張本人で、しかもひそかに売り始めていることを察知。それを先回りして売り抜けに成功し、200万円という巨利を得た。当時と今を比較してGDP(国内総生産)はざっと3000倍になっていることから類推すると、60億円くらいという計算になるだろうか。

 その後も株でもうけ、「成金」の名をほしいままにするが、1907年の株価暴落と経済恐慌を機に株式投資から足を洗い、実業家へ転身する。(敬称略)(週刊ダイヤモンド/ダイヤモンド・オンライン元編集長 深澤 献)

寝ながら金をもうけるには
株式なら霊感が頭に宿る

1928年3月1日号1928年3月1日号より

 私が株で儲けたのは、日露戦争後の熱狂時代ですが、株の売買はそれ以前からやっていました。なぜ、株なんかやったかというとその動機は病気にあったのです。

 私は明治27年、病気で診てもらうと、肺炎カタルという診断を受けた。あるいは本物の肺病であったかもしれない。とにかく、難病だ。女房子供を養った上に、わが身の保養をする段になると、なかなか金が要る。その当時、私は、北海道炭礦鉄道(北炭)に勤めていたが、その月給では到底追いつかん。

 そこで私は考えた。何かこう、寝ていて金を儲ける工夫はないものか、とね。