福沢諭吉の娘婿、相場師から実業家に転じた福沢桃介の半生(上)
 3回に分けて紹介した福沢桃介のインタビュー。福沢が自ら、相場師時代の一獲千金のエピソードから電力事業などでの実業家に転じた後の成功譚を披露してきた。「下」では、大同電力で行った米国での外債発行の思い出話が中心となる。

 1924年、福沢は社長を務めていた大同電力の外債募集のため米国へ渡る。前年に起こった関東大震災で国内の金融が壊滅し、発電所建設の資金調達がままならなかったからである。

 ただし、当時の米国は、日本人移民の入国を全面的に禁止する「排日移民法」が成立し、排日運動が渦巻く最悪の状況。そんな中、米国で福沢は財界の名士たちを訪ねては、類いまれなコミュニケーション力で信頼を得ていく。記事では、相手の懐に入り込むさまざまなテクニックを披露している。

 外債発行を取り仕切ったディロン・リード商会が主催した晩餐会で、ウィリアム・タフト前大統領(当時)をはじめ政財界の歴々の前で福沢が行った演説は、本人が「これは私の自慢話の一つ」と語っている通り、語り草になっている。かつて義父・諭吉の勧めで米国留学した際に磨いた英語力と、持ち前のユーモアで会場を爆笑させたという。

 そして、とても米国での外債発行など無理だと思われる中、福沢は総額2500万ドルの 外債を成功させる。当時の日本企業の米国での外債発行は、これが初めての快挙だった。これで得た資金で木曽川(岐阜県)に、当時東洋一の規模を誇った大井ダムを建設、日本最初のダム式水力発電所を造った。あらゆる面で型破りな人物である。(敬称略)(週刊ダイヤモンド/ダイヤモンド・オンライン元編集長 深澤 献)

大同電力の外債募集で渡米
もし不成立なら死ぬ覚悟だった

――近き将来に、ひとつ奇想天外というようなことをご計画なりませんか。

福沢 まずないね。ただ私の願うところは、株主の利益だ。自分の会社の株主のために、少しでも利益を増すことのみ考えている。それ以外に、理想などはありません。

――自分のせがれに財産を残すことは、良いことでしょうか。

1928年3月1日号1928年3月1日号より

福沢 私もせがれの駒吉のために考えたことはあるが、遺財はやっぱりない方がよいと思うね。駒吉の方でも、親の後を継ごうと思っていないらしい。第一、大同の社長などになるのは嫌だと言っている。自ら経営しているソーダ会社を専心よくする。この会社で10年間に1000万円の財産をつくると意気込んでいる。

 何しろあの会社は5、6割ずつもうけて、8分ないし1割の配当しかしないのだから、財産がずんずん増えていく。駒吉が言うくらいの保留はできるだろうね。

――大同電力の外債募集のときはずいぶんご苦心のようでしたが。