写真:国立国会図書館/AI Generated/Chat GPT
いま私たちが当たり前だと思っている日本の企業の姿や、働き方、組織の常識は、最初にそれを形作った設計者や実装者がいる。『日本を創った57人の経営者』の本稿では、「電力事業をどう競争させ、どう独占させないか」という“見えないインフラ”を築き、戦後日本の電力体制を設計した、松永安左エ門を取り上げる。「電力の鬼」と呼ばれた松永は日本の「競争原理の祖」ともいえる人物だ。(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)
戦後日本の電力体制を設計し
「電力の鬼」と呼ばれた男
この連載を始めて、私が何を見ても思いをはせるようになったことがあります。それは、普段当然のように接しているあらゆるものに「それを創った人がいる」という事実です。
例えば私たちが毎日、当たり前のようにスイッチ一つで明かりをつけ、安価で安定した電力の恩恵を享受できていること。これも「自然に制度がそうなったから」ではありません。
そこには、一人の「怒れる老人」の存在がありました。
松永安左エ門。 戦後日本の電力体制を設計し、「発送電一貫・地域独占」という独自の9電力体制(現在の10電力体制)の基礎を築き、その迫力から「電力の鬼」とまで呼ばれた人物です。
特に、独自の経営手法を生み出したとか、巨大財閥を築いたとかしたわけではありません。松永がつくったのは、経済の発展の源である電力を「どう競争させ、どう独占させないか」という“見えないインフラ”でした。日本の「競争原理の祖」といってもよいでしょう。
まつなが・やすざえもん1875年12月1日生まれ、1971年6月16日没
慶應義塾で福沢諭吉の謦咳に接し、1909年福沢桃介と共に福博電気軌道を設立、電力・ガス事業を開始。22年東邦電力を設立、後に社長に就任。電力の国家管理に反対し、国家統制が強まると東邦電力を解散して事業から引退。戦後は電気事業再編成審議会会長に就任し、全国9ブロックの電力会社分割を断行。「電力の鬼」と呼ばれた。 写真:国立国会図書館/AI Generated/Chat GPT
1階と2階で電力会社が違う家も
昭和初期の「電力戦国時代」
1875年、長崎県壱岐島に生まれた松永は、『学問のすゝめ』に感化されて慶應義塾に進みます。福沢諭吉の朝の散歩にお供をするようになり、直接「独立自尊」の教えを受けます。この「お上に頼らず、自ら立つ」という精神が、彼の生涯を貫く背骨となりました。
また、諭吉の娘婿・福沢桃介との縁を深め、共同で石炭販売の福松商会を創業します。さらに2人は福岡県で電力事業と鉄道事業を展開する九州電灯鉄道を創設。同社は合併を繰り返して拡大を続け、最終的には九州から四国、関西、中部地方までを供給エリアとする東邦電力と社名を変え、当時の「五大電力」(東京電灯、東邦電力、大同電力、日本電力、宇治川電気)と呼ばれる存在となりました。ここで松永は社長として権勢を振るいます。
大正から昭和初期にかけて、日本の電力事業はまさに戦国時代。1906年には全国に84社もの電力会社が乱立し、松永率いる東邦電力と、三井財閥系の東京電灯の競争はその象徴でした。
例えば、新しい家が建つと、営業マンがわれ先に電柱を立てて、電線を引き込む。1階は東京電灯、2階は東邦電力――そんな異常事態すら珍しくなかったといいます。時には鉢合わせした社員同士がつかみ合いのけんかを始めるほど、競争は苛烈を極めました。
松永は、この競争を否定しませんでした。むしろ、競争こそが電気料金を下げ、サービスを向上させる原動力だと考えていたからです。
そもそも英語の「competition」を「競争」と訳したのは恩師・福沢諭吉です。お上に頼らない民間主導の自由競争こそが経済を発展させ、社会を豊かにするというのは、福沢の教えそのものでした。
しかし、日本はこの後、戦時下経済に入ります。政府は電力の「国家による一元管理」の方針を打ち出しました。あくまで電力の「民有民営」を主張する松永は、これに真っ向から抵抗します。国(軍閥)の方針に従うだけの官僚を「人間のクズ」と言い放ち、全国紙への謝罪広告を出さざるを得ないほどの大騒動になったりもします。
それでも国家主義の波にはあらがえず、引退を余儀なくされるのですが、戦後になると松永は再び表舞台に立ち、マッカーサーもたじたじの「鬼」ぶりを発揮します。次ページでは、松永の国との戦いぶりと、現代の「電力自由化」の原型となるようなアイデアの源泉に迫ります。







