福沢諭吉の娘婿、相場師から実業家に転じた福沢桃介の半生(中)
 前回に続き、福沢桃介自身による回顧記事だ。桃介は相場師として日露戦争後の株式相場で財を成した後、その資金を元手に実業の世界に転身するが、そのときに共同出資者として白羽の矢を立てたのは、三菱財閥の3代目総帥、岩崎久弥である。岩崎は桃介が養父、福沢諭吉の勧めで米国留学していたときに知り合った仲だった。

 最初に始めたのは、福博電気軌道という福岡市での電車事業。その後、電力事業に参入する。折しも欧州で第1次世界大戦が勃発し、日本は空前の好景気に包まれる。桃介の相場師としての勘は実業の世界でも発揮された。電力需要が高まる中、特に水力発電に目を付け、慶應義塾の後輩だった松永安左エ門と共に数々の電力会社を立ち上げた。松永はその後、日本の「電力王」の異名を取るが、その道を開いたのは桃介である。

 実業家としても成功した桃介だが、記事中では、自分には先見の明があるわけでもなく、マネジメントがうまいわけでもないと語っている。それでも成功した理由としては、「ただ私は、会社の処置がうまい」、そして「合併のとき、計算上の知恵が上手に働く」のだという。「要するに私は、いかなる場合であっても、何とかして株主に満足を得させよう、もうけさせようとただそのことばかり考えている。その誠意が幾分でも先方に通じるのか、株主も私をかなり信頼してくれているようです」。

 取り立てて珍しい経営観を披露しているわけではなく、相場師、経営者としてたどり着いたのは、ごくシンプルな結論だった。そしてこの記事から3カ月後の1928年6月6日、桃介は実業界引退を宣言する。(敬称略)(週刊ダイヤモンド/ダイヤモンド・オンライン元編集長 深澤 献)

三菱財閥の岩崎久弥から
ポケットマネーを引き出す

1928年3月1日号1928年3月1日号より

 事業をやるには、金が要る。自分一人の資金では足りない。富豪の助けをたよらねばならぬ。その頃、事業家は、三井か、三菱か、渋沢(栄一)かの力をかりた。それによって事を成した。

 しかし、自分は、そういう月並みのことを好まない。誰か良い資本家を得ようと考えて、白羽の矢を岩崎久弥(三菱財閥3代目総帥)に立てた。無論、三菱から金を借りようと考えたのではない。岩崎久弥のポケットマネーを引き出すことを考えたのである。

 久弥さんは、知らぬ仲ではないが、その頃相場師とうたわれていた桃介だから、何と返事をするか。定めし先方は、大いに警戒するだろうと思ったけれども、当たって砕けよの例えもあることだから、明治41年の暮れに岩崎氏を訪ねた。