その「クネクネ」のルーツをたどると、行き着くのが明治後期の「煩悶」です。若者が内面の葛藤に悩み、まさにクネクネと悶え苦しんでいたわけで、そこで「文系のインテリ」あるいは「カルチャー」寄りの男性若者像が形づくられていきました。そして、それを当時のスタイルとして支えた理念こそが「教養主義」だったのです。
まず、高等教育が整備された明治期を経て、19世紀末から20世紀にかけて、将来は国のために身を立てる、といった立身出世の思想が変化していきます。というより、立身出世だけが若者の生き方ではない、と選択肢が増えた、と言っても良いかもしれません。イメージとしては、豪傑で真っ直ぐな生き方から、内省的になってきたのです。
明治後期に形成された多様性は、その風潮に影響を受けた多くの若者を生み出しました。ここで再び登場するのが徳富蘇峰です。明治という時代が終わり、大正が始まる中で、「大正青年」という概念を提示します。1916年に発表されベストセラーになった『大正の青年と帝国の前途』は、明治後期から大正に至るまでの「青年の傾向」を分類することで、今と変わらないような世代論、若者論を展開しています。
「模範青年」「成功青年」「煩悶青年」「耽溺青年」「無色青年」などといったキーワードは、そのまま現代の若者に当てはまりそうです。社会にしっかりと馴染む「模範青年」、利己的で成功ばかり追い求めるのが「成功青年」、「煩悶青年」は先述したとおり不安に悩まされ、人生の意味を考えるタイプです。さらに「耽溺青年」は、世間に背を向けて自分が好きなことに没頭しているような、今に当てはめるならオタクのラディカルなバージョンとでもいうべき人を指しています。「無色青年」は、これといって特徴のないような「普通の人」です。
大正青年は徳富蘇峰の
明治的な考えに反発
特定の層、特に若者にあたる層を取り上げて、それをいくつかのキーワードをつけて分類する手法は今でも見られますが、特に1980年代頃にはよくありました。ファッションや趣味がより細分化していくので、それらの要素も含めて切り分けていくことで面白みを出して、若者の生態を知りたい読者に広く受け入れられる。これらはキャッチーであるがゆえに途絶えることがないのですが、それに対して当事者である若者や、より年少の世代から「そんなふうに分けるな」と反発があるのも世の常です。大正時代においてもまた、同じような状況になっていました。







