吉野作造『蘇峰先生の「大正の青年と帝国の前途」を読む』は、より若い世代からのアンサー的な論考です。吉野は当時の時局を分析したジャーナリスティックな評論はもちろん、研究会を作る、言論の自由のために対立する者たちとの演説会を開くなど、大正デモクラシーの象徴的存在であり、さまざまな活動で人気を博していました。徳富蘇峰へのアンサーは、蘇峰の試みをきっちりと評価しつつ、釘をさすような内容です。
明治以前の社会で育った自分たちの先輩は、若者に対して「愛国心がない、国家の問題に関心が薄い」と言って批判する。確かにその通りではあるのだが、そのような批判をしたところで若者たちが唱導(教義を説き、人々を導くこと)されるものだろうか、と主張しています。この問題の肝として、昔気質の精神論を押しつけているだけでは不十分だろう、という指摘があります。
〔旧仮名遣いは現代仮名遣いに改めた〕
「若者は政治に無関心」は
明治時代でも論争を呼んだ
公衆トイレを引き合いに出すとはなんとも奇妙な文章ですが、ここで重要なのは、近代国家となった日本の進歩は随分といびつなものではないか、と示唆しているところです。法や道徳の面では進歩しているけれども、その基盤となる社会の仕組みがまだ不十分なのだから、理念を無理やり押しつけたとしても齟齬が出てしまうのは仕方がないわけです。
『「いまどきの若者」の150年史』(パンス、ちくまプリマー新書)
また、年長者が自分たちの過去を都合よく忘れてしまいがちなのもよくあるパターンでしょう。「昔は頑張っていたんだ」と言っても、その背景として昔は規制や慣習がゆるい社会だったわけで、それを今の社会に適用するのは難しいだろう、という話でもあります。
「若者は政治や社会に関心がない」といった批判は今でもよく聞かれます。特に私が若者だった頃(2000年代)には顕著で、「若者は選挙に行かない」などと言われ、2010年代においては「若者よ、選挙に行こう」といった言説も盛んに打ち出されていました。その一方で、昨今のZ世代は、政治的関心が高く、気候危機問題などに対して立ち上がるような動きが主に海外ではある、なんてことも言われます。実際に政治や社会に関心がある若者が増えているのか減っているのかといった議論には立ち入りませんが、少なくとも、「若者」世代が表面化していた明治の時期においてもそのような批判があったのはこれまで書いた通りです。







