過去最高水準の賃上げが続いていると報じられても、暮らしが豊かになった実感はなかなかわいてこない――そんなモヤモヤを覚える人は少なくないだろう。数字が上向いているはずなのに体感が伴わないこの違和感の正体を、20世紀を代表する思想家ピーター・ドラッカーは90年近く前に鮮やかに言い当てていた。本連載では、膨大なドラッカーの著作を読み返し、その中から令和の現在に役立つ知を取り出して紹介していく。(構成:ダイヤモンド社書籍編集局)

賃上げでも晴れない「気分」
「今年も過去最高水準の賃上げ」というニュースが流れる。それでも生活が楽になった手応えはなく、素直に喜べない――そんな人は多いはずだ。
この「成長しているのに豊かさを感じない」状態を、令和のいま私たちは「実感なき成長」と呼ぶ。恩恵が一部に偏る形を指す「K字型」という言葉も広まったが、いずれも私たちがこの気分につけた名前にすぎず、なぜそうなるのかまでは説明してくれない。名前を与えても、モヤモヤ自体は晴れないままだ。
その構造を、90年近く前に描き出していた人物がいる。ドラッカーの最初の著作『「経済人」の終わり』だ。本書の第2章は、当時のヨーロッパで人々がなぜ既存の体制を見限っていったのかを、統計の積み上げではなく人々の心の動きからたどっていく。そしてその筆致は、令和を生きる私たちの「気分」にそのまま重なってくる。
数字が「効かない」構造
ドラッカーは本書で、当時の労働者が「大衆の窮乏化」という考えを固く信じていた事実に注目する。これは、資本主義が進むほど大衆はますます貧しくなる、というマルクス由来のテーゼだ。
興味深いのは、この考えが統計的には正しくないと指摘されても、人々の信念がまったく揺るがなかった点である。ドラッカーは、その様子をこう記している。
このテーゼへの信奉は、それが労働者の生活水準だけでなく所得格差についても間違っているという事実によっては、少しも揺らいではいない。単に関係のないこととして受け取られている。
――『「経済人」の終わり』より
事実による反論は、「関係のないこと」として受け流されてしまう。人は自分の皮膚感覚でつかんだ結論を、統計を見せられたくらいでは手放さないのだ。
ここに、令和の私たちが直面している壁がある。数字は体感に勝てない。「平均賃金は上がっています」と示されても、多くの人の気分がびくともしないのはそのためだ。
まず動くのは数字ではなく、気分のほうなのである。
成長は「手段」にすぎない
では、なぜ人々の気分は数字で動かないのか。ドラッカーの答えははっきりしている。経済的な成長そのものは、社会にとってのゴールではないからだ。
豊かさを測る数字が伸びても、それが人々の求める何か――安心や公正さ――につながっていなければ、成長は「約束が果たされない手段」に見えてしまう。本書には、こう書かれている。
経済の成長と拡大は、社会的な目的を達成するための手段としてしか意味がない。社会的な目的の達成を約束するかぎりにおいては望ましいものであるが、その約束が幻想であることが明らかとなれば、手段としての価値は疑わしくなる。
――『「経済人」の終わり』より
成長は、それ自体が目的なのではない。人々が本当に望む暮らしへ近づくための「道具」にすぎない、という指摘だ。
そう考えれば、令和の「実感なき成長」もすっきり見えてくる。成長はゴールではなく道具である以上、道具ばかり増えても手応えが伴わなければ、人が喜べないのは当然なのだ。
問われているのは、その道具で何を実現するのかという中身のほうである。
指標で語る経営の落とし穴
成長がゴールではなく道具にすぎないのなら、会社が掲げる指標もまた同じ罠にはまる。経営陣が「過去最高益」「業界トップ級の賃上げ率」を誇らしく示しても、現場の士気は期待したほど上がらない。
数字はたしかに事実だ。しかし社員が日々感じているのは、増えない手取りや上がり続ける物価のほうである。立派な指標を並べるほど、かえって体感とのズレが際立つことすらあるだろう。
ドラッカーが数字ではなく人々の「気分」を出発点に据えたのは、そこにこそ社会を動かす真実が宿ると見抜いていたからだ。この洞察は、数字の物差しばかりで組織を語ろうとする現代の経営、すなわちKPI(重要業績評価指標)だけを頼りにする姿勢に、静かな警鐘を鳴らしているように思える。
数字を掲げること自体が悪いわけではない。ただ、指標は体感の代わりにならない。人が何に手応えを感じ、何に不安を抱いているのか――その皮膚感覚に耳を澄ますところからしか、本当の信頼は積み上がっていかないのだろう。
*本記事は、書籍、『「経済人」の終わり』の一部を抜粋・編集したものです。






