ヨーロッパからアジアへ、もっと短くたどり着く道はないのか。大航海時代、マゼラン海峡を押さえたスペインや、東回り航路を進んだポルトガルに対し、出遅れたイングランドとフランスは、氷に閉ざされた北極海へ目を向けた。なぜ彼らは、命がけで北西航路を探し続けたのか。本記事は、『地図で学ぶ「深読み」世界史』の著者・伊藤氏へのインタビューをもとに作成。カナダ誕生の背景や航海士たちの挑戦をたどり、パナマ運河より短い近道として注目される一方、国際問題の火種にもなる北西航路を、地図から読み解く。その歴史と現在を追う。
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本日は北西航路についてお話しします。北西航路とは、カナダやアラスカの北側を通り、大西洋と太平洋を結ぶ航路です。従来はマゼラン海峡やパナマ運河が使われてきましたが、距離や混雑、船の大きさの制限といった課題がありました。北西航路はパナマ運河経由より短いものの、北極海の氷に阻まれ、実用化は困難とされてきました。しかし2010年代以降、北極海への関心が高まり、新たな航路として期待される一方、国際問題の火種にもなっています。
マゼラン海峡を押さえられた英仏、氷の海に「近道」を求める
北西航路の探索が始まったのは16世紀の大航海時代です。ポルトガルは東回り、スペインは西回りでアジアへの航路を押さえていたため、後発のイングランドやフランスは、香辛料や茶、絹織物などを求め、新たな北方航路を探しました。
イングランド王ヘンリ7世の支援を受けたジョン・カボットは、1497年に現在のカナダ東岸へ到達します。その地は「新たな地」を意味するテッラ・ノウァと呼ばれ、現在のニューファンドランド島となりました。
その息子セバスティアン・カボットは、後のモスクワ会社の設立に関わります。同社はロシアとの貿易を独占するとともに、北東航路によるアジア進出を目指しました。航海士ヘンリ・ハドソンも北東航路や北西航路を探索しましたが、氷に阻まれて失敗します。ただし、その名は現在もハドソン川やハドソン湾に残っています。
先住民の「村」を意味する言葉が、なぜ「カナダ」になったのか
一方、フランスの航海士ジャック・カルティエは1534年に最初の西方航海を敢行し、カボットと同じく北米東岸に到達します。カルティエはこの地を、先住民(セントローレンス・イロコイ)の言葉で「村落」「定住地」を意味するkanataから「カナダ」と命名します。カルティエの航海は、当時のフランス王フランソワ1世(位1515~47)がマゼラン海峡(1520年に発見されスペイン影響下)に代わる、太平洋への航路を求めての事業でした。
このように、「大航海時代」初期より、世界進出に出遅れたイングランドやフランスといった諸国が、マゼラン海峡に代わる航路の探索に躍起になっていたのです。









