「変化の激しい時代を生きている」。私たちはそう信じて疑わない。だが1969年、ピーター・F・ドラッカーは『断絶の時代』で、当時の人々が誇っていた「革新の時代」という自己認識を統計で退けた。経済も産業も、半世紀前とたいして変わっていないというのである。この指摘を手がかりに、「変化についていけない」という焦りの正体を問い直す。本連載では、膨大なドラッカーの著作から令和の現在に役立つ知を取り出して紹介していく。(構成:ダイヤモンド社書籍編集局)

ドラッカー 継続の時代

私たちの暮らしは昭和製だ

 生成AIの話題を見ない日はない。ここ数年で、仕事の風景はずいぶん変わったように思える。

 だが、コンビニエンスストアの日本1号店が開いたのは1974年である。世界初のカップ麺の発売は1971年、個人向けの宅配便の開始は1976年だ。

 私たちの生活の骨組みは、昭和40年代から50年代にかけて出そろっている。その後に起きたことの多くは、運用と改良だった。

 ここで、暮らしには2つの層があると考えてみたい。道具の名前、話題の企業、働き方の呼び名といった、日々入れ替わる表層。そして、コンビニや宅配便のように、めったに動かない骨格である。

 スマートフォンは確かに新しい。しかし、そこから呼び出しているのは昭和に生まれた仕組みであり、注文しているのは昭和に生まれた商品である。

 つまり、新しいのは、接続の仕方のほうだ。接続されているもの自体は、そう入れ替わっていない。

 この違和感を、半世紀以上前に正面から言語化していた本がある。ドラッカーの『断絶の時代』だ。

革新の時代という自己申告

 本書が世に出た1969年、世間は自分たちを「革新の時代」と呼んでいた。テレビがあり、ジェット機があり、抗生物質があり、コンピュータがあった。

 ドラッカーはその自己申告を退ける。経済統計を見る限り、当時の先進国経済は1913年以前の数十年の延長線上にあったからだ。本書にはこう書かれている。

それまでの半世紀になされた発明を基盤とし1913年頃すでに確立していた技術に基づいていた。この半世紀は、日曜紙の特集がいう革新の時代というよりは、ヴィクトリア朝の遺産を実らせた時代だった。

――『断絶の時代』より

 鉄鋼、自動車、電機、化学。戦後の成長を担った産業は、いずれも1913年頃までに確立していたものだった。当時「新産業」と呼ばれた航空機やコンピュータ、製薬は、経済全体への寄与という点ではまだ小さかったとドラッカーは指摘する。

 彼はここで一つの思考実験を置く。ある有能な経済学者が半世紀の眠りにつき、目覚めて直ちに経済統計に目を通したとする。

 するとその経済学者は、経済が変わったことにではなく、あまりに変わっていないことに驚くというのである。

 人々が肌で感じていた変化と、統計に残る変化とは、まるで別のものだったのだ。

ドラッカーは日本を名指しした

 ここで見落としてはならない一文がある。ドラッカーはこの診断の対象に、日本を名指しで含めているのだ。

先進国においては、1960年代半ばの経済は、1914年以前の数十年間の延長線上にある。今日のアメリカ、ヨーロッパ、日本における経済は1885年から1913年の延長線上のものである。

――『断絶の時代』より

 ドラッカーはこのあと、戦後の鉄鋼生産の伸びを牽引した国としても日本を挙げている。1969年のドラッカーにとって、日本は継続の時代を代表する国だった。

 しかも評価の理由は、日本が新しい道を切り開いたことではない。前の世代が敷いたレールの上を、誰よりも速く、誰よりも遠くまで走る能力が図抜けていたことだ。

 日本は継続の時代の最も優秀な生徒だった。だとすれば、一つの帰結が出てくる。

 そのレールの終わりに最初に行き着くのも、また日本だということである。

表層と骨格は別の時計で動く

 私たちが「変化が激しい」と感じるとき、測っているのは表層の入れ替わり速度である。呼び名も、道具も、話題の企業も、確かに高速で入れ替わる。

 だが、表層と骨格は別の時計で動いている。そして表層が賑やかなときほど、骨格の変化のほうは見えにくくなる。

 ドラッカーが断絶と呼んだのは、表層の入れ替わりではない。骨格そのものが変わる事態のことだ。

しかし、いまや経済も技術も断絶の時代に入った。われわれは、この時代を偉大な発展の時代にすることができる。

――『断絶の時代』より

 断絶は、悲観の宣告として書かれてはいない。ドラッカーはそれを、大きな発展の機会として見ている。

 そのうえで、私たちにとって意味があるのはここからだ。焦りの多くは表層の速度への焦りだ。走るのが速い人も遅い人も、骨格の変化を見落としている点では変わらない。

 だとすれば、問うべきは「変わったのか、変わっていないのか」ではないだろう。いま自分が見ているのは、どちらの層なのかである。

 たとえば生成AIが、表層の新しい道具にとどまるのか、それとも骨格そのものを組み替えるのか。答えはまだ出ていないが、問いの立て方は半世紀前と変わらない。

 そしてこの問いの立て方こそ、本書の方法そのものだ。ドラッカーはまえがきでこう宣言している。

本書は趨勢を予測しない。非連続の断絶を見る。明日を予測はしない。今日を見る。「明日はどうなるか」を問わない。「明日のために今日どう取り組むか」を問う。

――『断絶の時代』より

 明日がどうなるかは、誰にも予測できない。できるのは、今日をどの層で見るかを選ぶことだけである。本書は、その選び方を半世紀以上前に示した1冊だ。