17世紀の巨匠たちが描いた美しい風景画。実はそれらの多くが、目の前のリアルな景色ではなく「画家の記憶と想像」で描かれていたことをご存じでしょうか。「記憶」ではなく、「いま見えているもの」だけを描きたい――。クロード・モネがアトリエを飛び出し、屋外でキャンバスに向かうという“異例の挑戦”に踏み出せた背景には、当時の「画材の進化」がありました。本記事では、新刊『「いまを生きる力」を取り戻す 感性の教室』から内容を一部抜粋して、モネの代表作《ルーアン大聖堂》誕生に秘められたアートの知られざる歴史をお届けします。

【名画】モネの《ルーアン大聖堂》はどう生まれた? 画材の歴史から読み解くアートの革命

「屋外で油絵を描く」という非常識な挑戦

上の作品の題名は、《ルーアン大聖堂》です。

「ルーアン大聖堂」とは、フランスのノルマンディー地方に実在する建築物で、この絵が制作された1892年当時、モネはその建物の向かいにアトリエを構えていました。
つまり、この作品に描かれているのは「幻想的な世界」などではなく、アトリエの窓辺からモネが見た「実際の景色」だということです。

この作品にかぎらず、モネはさまざまな風景を、ただ見えるままストレートに描きました。睡蓮が広がる池や、藁が積まれた畑、ポプラ並木など、《ルーアン大聖堂》の前後の時期には、さまざまな風景画が描かれています。
これらの作品を描く際、モネはキャンバスと油絵の具を「屋外」に持ち運び、実際の景色を目の前で見ながら、現場で絵を描いたことが知られています。

屋外で油絵を描く─いまでは日曜画家が公園にイーゼルを立てて油絵を描く姿が容易に想像できますが、モネが活動した時代、それはかなり珍しいことでした。

従来でも、鉛筆やペンなどの簡易的な画材でのスケッチが野外で行われることはよくありました。しかし、それはあくまで「取材目的」や「下描き」にすぎず、油絵の具でキャンバスに描く「本制作」は、屋内のアトリエで行われるのが常識だったのです。

そう言い切れるのは、画材に大きな理由があります。
モネが活動していたのはちょうど、19世紀前半に開発された「チューブ入り絵の具」が産業化の波に乗って普及した時期でした(10)。容易に持ち運ぶことができ、そこまで下準備がいらないチューブ入り絵の具は、屋外で使用するのにも好都合だったのです。

では逆に、チューブ入り絵の具が開発される以前、油絵の具はどんなかたちをしていたのでしょう?
《ルーアン大聖堂》の背景にある「ものの見方」を理解する手がかりにもなりますので、画材についての話に、少しだけおつき合いください。
そもそも、油絵の具はどんな材料でできていると思いますか?

その正体は、「顔料」と「油」です。
顔料と聞いてもピンとこないかもしれませんが、それは簡単に言えばさまざまな色の「粉末」です。いまでは石油を合成して人工的につくり出す顔料が主流ですが、かつては自然界の物質をきめ細かく粉砕してつくっていました。
その代表が「石(鉱物や岩石)」です。宝石を思い浮かべてみればわかりますが、石にはさまざまな色彩がありますし、草花のようにすぐに変色してしまうことがありませんよね。

それでは、色とりどりの石を砕いてすり潰し、水で溶いてキャンバスに塗ってみたとしましょう。それだけでは、水分が乾いた途端に粉末がサラサラと落ちてしまいます。
そこで今度は、顔料をキャンバス上にとどめておく「接着剤」が必要になります。接着剤の役割を果たすものも自然界にいろいろとありますが、そのうちの1つが「植物油」なのです。
なかでも、亜麻の種子を原料としたリンシードオイルなど、ひとたび乾いたらしっかりと固まる性質を持つ油が重宝されてきました。
こうした植物油は、空気に触れることで徐々に固まりはじめますので、あらかじめ顔料と油を混ぜ合わせておくわけにはいきません。
そのため、チューブ入り絵の具がなかった時代には、絵を描きはじめるときに毎回、小皿の上で顔料と油を練り合わせて絵の具をつくらなければなりませんでした。それだけでもかなり負担の大きい作業です。画家が制作に集中できるよう、弟子がこの作業を担うことも多かったようです。

それゆえ、油絵の制作が屋内で行われていたのは、きわめて自然なことでした。
こんな作業を屋外でやろうものなら、大変で仕方なかったでしょう。風が吹けば貴重な粉末が飛んでしまいますし、日光があたれば油が少しずつ乾いてしまいます。そこににわか雨がやってくれば、目も当てられません。

このような背景を踏まえると、モネが試みた「屋外の制作」が当時としてはかなり斬新なスタイルだったのがわかると思います。