そもそもエビデンスという言葉は、主に医療の領域で使われていた用語である。1990年代以降、医師の経験や生理学的な知識ではなく、臨床データに基づいて治療することを重視する「エビデンス・ベースト・メディシン(EBM:Evidence-Based Medicine)」すなわち「根拠に基づく医療」という動きが生まれた。そこで言うエビデンスとは、治療の効果や副作用といった因果関係をめぐる証拠のことだ。とくに、ランダム化比較試験(RCT:Randomized Controlled Trial)と呼ばれる実験と統計に基づく証拠が重視される。この厳密な意味でのエビデンスは、政策や教育といった領域にも広がっている。
これに対し、世間では、同じ「エビデンス」という言葉が、緩い意味のバズワードとして使われている。その中身はかなり雑多であり、広く数値化されたデータを指すこともあれば、画像やテキストを指すこともある。人によっては、極めて粗雑な証拠(めいたもの)も「エビデンス」と認定する。
「エビデンスはありますか」
専門家を疑う人たち
重要なのは、この緩い意味での「エビデンス」の広がりが、専門家の意見への留保とともに現れていることだ。それを象徴するのが、「それってエビデンスあるんですか」という言い回しである。専門家の意見をそのまま受け入れるのではなく、根拠を求める。それにより、自分が納得できることだけを認めようとする。
もちろん、主張の根拠を問うこと自体は良いことだ。根拠のない治療や政策は、しばしば大きな危険や無駄を伴う。けれども、「エビデンス」を求めるとき、人々(筆者自身も含む)がどこまで真剣にそれを吟味できているかと言うと、疑問も残る。
本来、厳密な意味でのエビデンスには、証拠としての強さという発想がある。強いエビデンスと弱いエビデンスの間にはグラデーションがあり、患者の語りのような「主観的」な情報であってもエビデンスになる。そのため、「エビデンスがある」と言うだけでは、あまり意味がない。あくまでも、そのエビデンスの強弱が問題になるからだ。
『科学否定論はなぜ人をひきつけるのか』(松村一志、筑摩書房)
ところが、緩い意味での「エビデンス」の場合には、「エビデンスがある/ない」という二分法で判断されやすい。しかも、「エビデンス」が示されたら信じるが、示されなければ信じないというように、「エビデンス」の有無が、専門家が信頼できるかどうかを判断する一種のリトマス試験紙として使われる。
だとすると、「エビデンス」の広がりは、専門家への信頼の表れというよりも、むしろ、専門家不信の表れと見た方が良いだろう。そこには、専門家の意見を手放しでは信じないという反権威主義が含まれているからだ。その意味で、「エビデンス」を求める態度は、思いのほか陰謀論と近いところにある。
そう考えると、科学否定論の問題も決して他人事とは言えなくなる。科学否定論は陰謀論を使って専門家を疑うが、「エビデンス」を求める人も、専門家に不信の目を向けることになる。極端な場合、専門家が通説を紹介していたとしても、「エビデンス」が示されなければ、その意見を拒絶することがありうる。つまり、地球平面論者のような「変わり者」だけが、通説を否定するわけではないのだ。







