まだ働けるのに、活躍の場のほうが先になくなる――役職定年、早期退職、そして黒字リストラ。形は違っても、この落差に戸惑う人は多い。ピーター・F・ドラッカーは1950年代のニューヨークで、まさに同じ状況に置かれた45歳前後の元将校たちから、大量の相談を受けていた。だが、ドラッカーが実際にしたことは、もっと身も蓋もなかった。『傍観者の時代』から、経験があるのに呼ばれなくなるとき、何が起きているのかを読み直そう。本連載では、膨大なドラッカーの著作を読み返し、その中から令和の現在に役立つ知を取り出して紹介していく。(構成:ダイヤモンド社書籍編集局)

経験はあるのに、声がかからない
経験はある。実績もある。それでも、声がかからない。
いまから70年ほど前、1950年代から60年代にかけて、ニューヨーク大学大学院で教えていたドラッカーのもとに、中年の将校たちが次々とやって来るようになった。
軍が退役を急ぎ始めたためだった。軍という世界だけで働いてきた人たちが、まだ十分に働ける年齢で、場のほうを先に失ったのである。
この場面を書いているのが、『傍観者の時代』である。ドラッカー名著集のなかで、本書だけが経営や社会の理論を説く本ではない。
フロイトやGMのスローン、メディア論のマクルーハンをはじめとする様々な人物との出会いを綴った、唯一の自伝的著作である。
相談の中身は、はっきりしていた。博士号でも取って、大学の教職に就けないだろうか、というものだった。彼らにとって学位は、次の身分証のように見えたのかもしれない。
本当に必要だったもの
だが、ドラッカーの見立ては違った。彼らが求めるべきものは、別のところにあった。本書には、こう書かれている。
しかし、彼らが本当に必要としていたのは、自信をもってこなすことのできる仕事だった。軍以外で働いたことはなかった。45歳で昇進の見込みなしと放り出されたのでは、茫然として当然だった。
――『傍観者の時代』より
45歳で先はないと告げられ、軍の外で働いた経験もない。茫然とするのが当然だ、とドラッカーは書いている。
彼らが口にしたのは学位だった。しかし要るのは、明日から自信をもって取り組める仕事のほうだった。相談の中身と、本当の必要性は、ずれていたのである。
学位を取るには何年もかかるが、仕事のほうは目の前にあるかもしれないのだ。
気まずいが省けない一手
では、ドラッカーは何をしたのか。使ったのは、少年時代のウィーンで見ていた恩師オイゲニア・シュワルツワルト、通称ゲーニアのやり方だった。
戦前には不要だった旅券や身分証明書が、第一次世界大戦後は突然、生きていくために欠かせないものになった。ウィーンには、ロシア革命の難民や帰国できない戦争捕虜など、書類を持たない人々があふれ、彼らが頼った先がゲーニアだった。彼女は話を聞き質問しながら、その裏で助手に確認の電話をかけさせていた。だまそうとする者も多く、「一度だまされたら終わり」というのが彼女の言葉だった。
ドラッカーは、これをそのまま再現した。
何をしてきたか、何をできるかを聞いた。彼らの話を逐一チェックしていった。最初のうちは、私としても、本人を目の前に上官や同僚に話をチェックするための電話はしにくかった。しかし、それはしなければならないことだった。
――『傍観者の時代』より
気まずくないはずがない。本人を目の前にして、その話が本当かどうかを他人に確かめるのだ。
この確認は省けなかった。不正確な紹介は、次から信用されなくなるからだ。善意の側にこそ、確かめる責任がある。
そのうえで彼は相手先に電話をかけた。助けを求めるのではなく、問題の解決策として差し出したのである。
使われなかった有能さ
本書には、これと対をなす人物がいる。ゲーニアの夫、ヘムである。
財産もコネもない行商人の家に生まれた彼は、公務員として史上最速の出世をした。通常は50歳を待つ高等官に35歳で任命され、帝国の財政を4年間支えた。
だが敗戦後、通貨が大きく減価した局面で呼び戻され、失敗した。紙幣の増発を止めれば失業が増える。政治的に許されなかったのだ。
後任となった後の世界的経済学者シュンペーターも、なすべきことを知りながら実行できず1年で辞任した。個人の能力の問題ではない。
ヘムはその後銀行の再建にも失敗し、60歳を前に引退した。家にこもりチェスの詰め問題を解いて過ごした。見知らぬ大勢のために電話をかけ続けたゲーニアだったが、いちばん近くにいたこの人のためには、その電話は機能しなかったのかもしれない。
能力があることと、使われることは別だ。
ドラッカーが将校たちにしたのは、励ますことではなかった。話を確かめ、こなせる仕事を特定し、先方に伝えることだった。身も蓋もないが、必要なのはそちらのほうだろう。誰かが必要とする形に翻訳されて、初めて仕事になる。






