奥田は、組織改革にも熱心だった。社長直轄の社内ベンチャー、VVC(バーチャル・ベンチャー・カンパニー)を設立し、若者向けのクルマの開発や異業種との協業ブランドの展開を図った。当時は、「トヨタ社内に2人のプレジデントが誕生した!」(奥田とVVCトップのこと)と騒ぎになるくらい、挑戦的な試みだった。

 99年1月、モータースポーツの最高峰であるF1への初参戦を決めたのも奥田だ。日本の若者へのアピールもあるが、欧州でのイメージアップ、ヤリスがイギリスに続きフランスでも現地生産するのを側面支援するのが真の狙いだった。

 この小型車で世界を攻める戦略は、結果的にグループ強化と国内でのシェアアップにもつながった。98年にはダイハツ工業への出資比率を34.5%から51.2%に引き上げて子会社化。軽自動車やリッターカークラスのベーシックカー分野が今後の主戦場になると睨んだわけだ。

 もちろん、軽自動車の雄であるスズキへの対抗も含んでいる。「軽自動車の優遇制度は世界的に見ると、どうなのか。中長期的には見直しも必要では」と自動車工業会の会長として発言し、鈴木修の猛反発を招いたことでも知られる。

トヨタ・奥田碩が“左遷先”のフィリピンで「得たもの」、財界トップに上り詰めたワケ豊田章男・トヨタ自動車会長 Photo:NurPhoto/gettyimages

創業家と付かず離れず
豊田章男を要職に抜擢

 奥田といえば、創業家との距離感も絶妙だった。「求心力として豊田家は尊重する」と語りながらも「豊田家といっても公平に見ていく」と言い切っていたのが印象深い。

 それでも豊田章男(現トヨタ会長)を、1998年に42歳の若さで米法人の副社長に抜擢したのが、ほかならぬ奥田である。章男は豊田宗家の跡取り長男であり、マネジメント経験を積んで2009年に社長に就任した。

 ところで奥田の実家は、祖父が起こした三重の奥田証券という。「ウチは株屋で爺さんは相場師だった。親父も継いだが色々あった」と多くは語らなかったが、奥田の麻雀や競馬好きは相場師のDNAではないかと思う。名経営者は運を味方に付けるものだ。

 一橋大学では柔道部で鳴らし、石原慎太郎とも交友があった。海外VIPと並んでも見劣りしない「古武士」の佇まいで、日本を憂う国士の矜持を持っていた。