トヨタだけでなく
日本の変革にも取り組んだ
奥田は99年6月にトヨタ社長を張富士夫に譲ると、トヨタ会長として財界活動に注力する。同年、日本経営者団体連合会(日経連)の会長に就任。2002年にはこの日経連と日本経済団体連合会(経団連)の統合を主導し、新・経団連の初代会長になった。
経済財政諮問会議の民間議員として政治にも積極的に関与した。「デフレが深刻なのは構造改革が進んでいないから」「日本は周回遅れのランナー」などと警鐘を鳴らし続けた。
とりわけ「自民党をぶっ壊す」と吠えた小泉純一郎政権に連動し、「官から民へ」の号砲のもと郵政民営化に協力、トヨタから人材を送り込んだ。「金も出すが、口も出す」と言い切る奥田のやり方は各所に波紋を広げたが、批判を恐れず実行し続けたのは奥田らしい。
奥田がトヨタを変革したのは資本の論理に基づくものだったが、それだけではない。『トヨタ2005年ビジョン』では、「グローバルスタンダード、つまり多国籍化した企業経営へ」「質的な面では、人徳ならぬ社徳のある企業になりたい」と説明していた。
この「徳」は奥田のモットーとなった。企業として量的な拡大はもちろん、環境対応や社会貢献も含めた「調和のある成長」がトヨタの真の変革だと主張した。
これは後に財界トップとして「雇用を守れない経営者は辞めるべきだ」「人間の顔をした市場経済を」と発言したことにつながる。奥田が実は、弱者や他人を思いやる惻隠(そくいん)の情をもった人柄だということは、奥田と近い人なら知っていた。
奥田の信念の根底には、やはりトヨタ自販時代のフィリピン長期赴任での経験が大きいだろう。一億総中流社会の日本とは、治安、貧困、格差などあらゆる面で真逆の現地でさまざまなことを感じたのだろう。
また、“左遷”の意としては「フィリピンに赴任したものの監査権はなく、私はコンサル的な立場に置かれて社会的なジレンマを感じる毎日だった」と語っていた。
一方で得るものもあった。「何がしかの決断、判断が私には絶えず求められ、いちいち本社にお伺いを立てたり考えていたのではどうにもならない。結果として自分自身の意思決定が早くなった」と振り返っていた。そんな奥田を見いだしたのは、豊田章一郎だった。
奇しくも奥田の命日は令和8年8月8日。「俺の生涯は八並びで終えたか」と泉下でつぶやく光景が目に浮かぶ。お別れの会が待たれる。合掌。








