奥田の「速さ」の
原点は若手時代に

 1955年にトヨタ自動車販売へ入社した奥田は経理部に配属され、入社から3年ほどで「総勘定元帳」の管理を任された。

 取引、経費、幹部の交際費まで伝票を見れば、会社の人、モノ、カネの流れが見える。本人は2013年の日経インタビューで、「取引がわかりにくい伝票をみつけては上司だろうが役員だろうが、問い詰めました。社内では「生意気だ」と煙たがられました」と振り返っている。普通なら若手社員が役員の伝票に口を出すだけでも相当な度胸である。奥田は最初から、順番が回ってくるまで待つ人ではなかった。

 1972年にはフィリピンのマニラへ赴任した。周囲には左遷と見る人もいた。ところが本人の受け止め方が面白い。

「駐在員が少ない分、日本の本社から幹部が来たときには全部自分たちで応対しないといけないので、幹部たちの目に留まるチャンスが多くあります。モノは考えようです」と語っている。左遷された、と腐るのではない。

 人が少ないなら、むしろ偉い人と直接仕事ができる――。置かれた場所の不利を、すぐに自分の有利へ読み替えたのだ。

 しかもマニラでは、トヨタにとって初の海外エンジン生産プロジェクトに関わった。社内には「他社から調達すればいい」と考える幹部もいたが、奥田は、自動車の心臓部であるエンジンを他社から買うなどあり得ないと反対し、自社生産を押し切ったという。延滞されていた資金の回収も担当し、政権に近い相手と粘り強く交渉して回収した。

 ここでも待たない。誰かに決めてもらわない。現場で必要だと思えば押す。相手が強くても取りに行く。後の奥田経営の原型が、すでにできている。

 だから、プリウスの1年前倒しも突然の思いつきではない。奥田にとって「まだ準備が整っていない」は、待つ理由ではなく、間に合わせる方法を考える合図だったということだ。

 若手時代には役員相手でも伝票を問いただし、マニラでは左遷と見られた人事を好機に変え、エンジンの自社生産を押し通した。そして社長になると、巨大なトヨタそのものを同じ速度で動かそうとしたのである。