「笄斬り」で信長から追放される

 順調に出世していた利家でしたが、永禄2年(1559)、大きな失敗を犯します。信長のお気に入りの同朋衆、拾阿弥と対立し、ついに彼を斬り捨ててしまったのです。妻のまつから贈られていた笄(こうがい)を、拾阿弥が盗んだことが対立のきっかけだったとされています。

 激怒した信長は、利家を織田家から追放しました。しかし、利家は、ここで終わりませんでした。

 浪人同然となった利家は、桶狭間の戦いや森部の戦いに無断で参戦し、敵将の首を挙げるなど武功を重ねます。その働きが認められ、永禄4年ごろには、信長から帰参を許されています。

 この苦しい時期に利家を支えたのが、実は柴田勝家でした。笄斬り事件の際に、信長に利家の助命を願い出ただけでなく、追放中の利家の生活を援助することまでしていたのです。

 その後、利家が前田家の家督を継ぐ際にも、長男の兄や家臣たちと揉めたのですが、その仲裁に勝家が入って解決するなど、二人の関係は深いものでした。利家が勝家を「親父殿」と呼んで慕ったのも、こうした恩があったからなのです。

『豊臣兄弟!』の柴田勝家 (C)NHKなにかと世話になった柴田勝家を「親父殿」と呼んで慕っていた (C)NHK 拡大画像表示

柴田勝家と豊臣秀吉の間で

 天正3年(1575)、柴田勝家が越前を支配するようになると、その与力となった利家には、府中3万3000石が与えられました。ここで念願の城持ち大名となり、居城も荒子城から府中城へ移ります。

 しかし、本能寺の変によって状況は一変してしまいます。

 信長亡き後、織田家の主導権をめぐって、柴田勝家と豊臣秀吉が対立。天正11年(1583)、賤ヶ岳の戦いが起こりました。

 利家にとって、勝家は自分を支えてくれた大恩人です。一方、秀吉とも若いころから家族ぐるみの付き合いがありました。

秀吉(左)と利家は若い頃から苦楽を共にしてきた友だちで、家族ぐるみの付き合いでもあった (C)NHK秀吉(左)と利家は若い頃から苦楽を共にしてきた友だちで、家族ぐるみの付き合いでもあった (C)NHK 拡大画像表示