「自分勝手」は「悪い人」?そうとは言い切れない“人間くさい理由”〈風、薫る第123回〉

ツヤ、ゆるされていなかった

 寛太は自分軸でしか動いていない。それを単純に悪い人と言い切れないのは、時々、直美にメリットのあることをしてくれていたから。母親探しや母親を故郷につれていってくれたり。

 でもそれもなんだかんだで直美とつながっていたら、看護婦が儲かると気づいていち早く動き、今回の危機にもいち早く手を打てた。単にそういうことなのだ。自分が生き延びるための嗅覚に優れているのだ。

『風、薫る』が淡々として、大きな波が来ないように感じるのは、寛太のような人物を主人公たちに大きく立ちふさがる巨悪、敵に描かないことだろう。価値観の違いを極端に描くことで話に起伏を作ってきた時代から、物語のまなざしに変化が見られる。

 例えば、不朽の名作『ローマの休日』の脚本家、ダルトン・トランボを主人公にした映画『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』(2015年)で、主人公は授賞式のスピーチでこんなことを語る。

「(赤狩り時代には)英雄や悪者を探しても何の意味もありません。いないのですから。いたのは被害者だけ」

 過酷な赤狩り時代をくぐり抜けた映画人たちの物語で、三谷幸喜もこのモチーフで演劇を上演している。現在とどこか親和性があるからだろう。

 赤狩りの時代に限ったことではなく、いつの時代でもこういうことはありえるのではないかと筆者は考える。いつの時代でもそれぞれが生きるために最適解を探す。だが誰かが生きるための行為によって損なわれる人も出てしまう。難しい問題である。

 被害者をつくるのは社会だと思う。「風、薫る」の被害者のひとりは、ツヤであろう。結局、証明書は出なかった。11年たっても、彼女のことは大学では許容されなかったのだ。看病婦から看護婦を目指し仕事と学業で手一杯になって業務をおろそかにして解雇された。

 たった1回の失敗によってその前の数年の成果は無に帰した。病院側が悪人ではない。病院としては病院の名誉を守らなくてはいけなかったのだろう。

 物語によっては、りんと直美の活躍で、11年もたったことだし水に流して、証明書を出そうという話になってもよさそうなところ、この物語は、主人公を英雄にもしないし、被害者を被害者として描くのだ。厳しい〜〜。