本能寺の変後、織田家中で台頭した羽柴秀吉に、信長の次男・織田信雄と徳川家康が挑んだ小牧・長久手の戦い。局地戦では家康方が勝利したが、2026年に新たな秀吉の朱印状が見つかり、戦局の見方に一石を投じている。天下人への道を進む秀吉が、なぜ家康を武力で屈服させなかったのか、その謎に迫る。(古城探訪家 今泉慎一、執筆協力/青栁智規)
信長の後継争いの筆頭となった秀吉
対抗するため手を組んだ信雄と家康
本能寺の変での織田信長の死後、織田家中では跡目争いが激化します。山崎の戦いで明智光秀、次いで賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破った羽柴秀吉が、その中で頭ひとつ抜きん出ます。それに待ったをかけたのが信長の次男・信雄(のぶかつ)。そして彼が手を組んだ相手が、徳川家康でした。
孟齋芳虎画「三河英勇傳」より『従一位右大臣 征夷大将軍源家康公』/Wikimedia Commons(Public Domain)
家康は元々、信長と同盟関係にありました。しかし山崎の戦いで明智光秀を討った秀吉は、信長の嫡孫・三法師を擁立し、織田家中で急速に発言力を強めてゆきます。
豊臣秀吉像の一部。狩野随川作。(秀吉清正記念館蔵)/Wikimedia Commons(Public Domain)
『太平記拾遺:北畠内府信雄(北畠信雄)』落合芳幾作、1869年。北畠信雄はのちの織田信雄/Wikimedia Commons(Public Domain)
そんな秀吉に対抗するため、信長の遺児である信雄は、父・信長以来の同盟者だった家康に接近します。家康に、打倒秀吉の大義が降って湧きました。こうして、秀吉vs信雄・家康連合軍が相対する、小牧・長久手の戦いが勃発したのです。







