「戦況は家康優位だった」は誤り?
新発見の文書が伝える戦いの実状
両軍の戦いはその後、激しい攻防や膠着(こうちゃく)状態を経ながら実に8カ月に及びます。戦いは信雄・家康軍優位に進んだというのが通説ですが、その通説を見直さざるをえない史料が、2026年5月に発見されました。
兵庫県たつの市の旧家から発見されたのは、2通の書状です。小牧・長久手の戦いの最中に、秀吉が家臣の脇坂安治に送ったもの。そこには、恒興と長可は討死したが、陣を固めており心配ないこと、さらに敵方へ攻め込んで放火し、砦を築いていることが書かれています。
『太平記英勇伝九十六:秋坂中務大輔安治(脇坂安治をモデルとした人物)』落合芳幾画/Wikimedia Commons(Public Domain)
脇坂安治は賤ヶ岳の戦いで活躍した「七本槍」の一人。しかも2通はいずれも秀吉の朱印状と確認されており、信ぴょう性があるといってよいでしょう。
新発見の書状には、信雄・家康側から人質を出す条件で和議を申し込んできたことが記されています。優位に立っているのであれば、家康の方から和議を申し込む必要はないはず。
なのになぜ家康はそうしたのか? 小牧・長久手の戦いのこの謎は、新発見の手紙によって解かれたといってもいいかもしれません。つまり、重臣2名を失ったものの、全体の戦況としては信雄・家康方が劣勢だった。だから、信雄・家康方から和議を申し込んだのだ、と。
最終的には秀吉と信雄の間で和議が結ばれ、続いて家康も秀吉と和議を結んでいます。
家康討伐を公言していた秀吉に
立ちはだかった意外な“敵”
和議に応じた後も秀吉は、家康征伐を公言していたともいわれています。ではなぜそうしなかったのか? しなかったのではなく、実はある“敵”が立ちはだかり、家康征伐どころではなくなってしまったのです。







