小牧・長久手の戦い終結から約1年2カ月後の1586(天正13)年1月。発生した天正地震。その規模は、マグニチュード7.8と推定され、震源は今の岐阜県郡上市と高山市にまたがる大日岳付近ともいわれており、飛騨の白川郷では山崩れによって帰雲城と城下が埋没するなど、大きな被害が生じました。

 秀吉方では、美濃と尾張の被害が甚大でした。美濃では大垣城が全焼・全壊。尾張でも法性寺(愛知県あま市)、真清田神社(愛知県一宮市)などが倒壊しています。また、日本海側の若狭湾と、太平洋側の伊勢湾に津波が到達し、琵琶湖でも津波が発生したといわれます。近江の長浜城も全壊するなど、各地で大きな被害が生じました。

長浜城長浜城。秀吉はここで初めて一国一城の主となった 撮影:今泉慎一(風来堂)

 この想定外の地震による自身の領地の被害が甚大だったため、秀吉は戦よりも復興を優先せざるを得なくなったのではないでしょうか。秀吉の家康討伐計画にも影響し、軍事侵攻は見送られたと考えられています。家康を攻めようにも、兵の確保や移動網といった軍事インフラがフリーズしてしまったことは大きな痛手でした。

 一方、信雄領の伊勢では、長島城が全壊したほか、液状化の被害も多数発生したといわれています。徳川領でも岡崎城が大破するなど被害がなかったわけではありません。ただ、徳川領は震度4程度で、秀吉領よりは軽いものだったと推測できます。

岡崎城の本丸北側を守る西海堀岡崎城の本丸北側を守る西海堀。一部石垣が積まれているが、家康時代の岡崎城は基本的に土造りの城だった 撮影:今泉慎一(風来堂)

 ちなみに秀吉はこの約10年後の1596(慶長元)年にも慶長伏見地震に見舞われ、京都の伏見城が大被害を受けています。いかに天下人となる秀吉であっても、天変地異の前ではなす術がなかったでしょう。

“機を見るに敏”を絵に描いたよう
敵対から恭順へと態度を変えた家康

 すでに四国を平定していた秀吉はその後も九州、関東と版図を拡大し、天下人に上り詰めました。地震により辛くも身を交わした家康でしたが、その後も、他の大名と同じように滅ぼされてもおかしくはありませんでした。

 ですがそこは家康のしたたかなところ。それまでの関係性から一転して、秀吉と良好な関係を築く戦略を取ります。

 あくまで後の創作ですが、家康は、大坂城にて他の大名の前で秀吉に臣従の意志を示したという伝承も伝わっています。その際に家康は、今後は秀吉の代わりに自分が戦の指揮を執るとして、秀吉の陣羽織を所望したとか。これらの話の真偽はともかく、家康は極めて巧妙に秀吉の圧力をかわしていったのは間違いない、と言えそうです。

(サムネイル画像:徳川家康像(狩野探幽筆、17世紀、大阪城天守閣蔵)/Wikimedia Commons(Public Domain))

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