まさに「飛んで火にいる夏の虫」。島津軍の反撃を受けて豊臣方は大敗し、総崩れとなりました。そして戦いで存保は討ち死にしてしまいます。享年、33歳。讃岐での経緯に続いて、遠征先でもとんだとばっちり。完全に「巻き込まれ事故」です。存保は秀久と出会ったことで度重なる不運を呼び寄せてしまいました。
古戦場そばの丘の上に立つ十河一族慰霊碑 撮影:今泉慎一
この戦いでは、長宗我部家の嫡男(ちゃくなん)だった信親も享年22歳という若さで命を落としてしまいます。また、長宗我部家に従っていた本山親茂、福留儀重といった土佐の猛将たちも戦死し、豊臣勢はこの戦いで貴重な人材を多数失ってしまうのです。『土佐物語』『元親記』には、信親も秀久の作戦に反対したとする記述もあります。
十河一族慰霊碑のそばには長宗我部信親の墓も 撮影:今泉慎一
豊後国には、追って秀吉方の本隊が大軍でやってくる段取りでした。つまり兵数が劣る中、無理して突撃をする必要などなかったのです。誰がどう見ても完全なる判断ミスの「秀久、アウト!」でした。
しかも秀久は敗戦後、小倉へ退き、さらに讃岐へ逃げ帰ります。さすがの秀吉も、この敗戦とその後の行動を問題視。秀久は讃岐の所領を没収され、高野山への追放を命じられます。十万石余の大名に成り上がってから、わずか1年あまりでの没落でした。







