つまり、根本のどのような「内容」で書くかという視点が人材には求められている。そこでは「英語ができる」のは決定的なことではなく、別な言い方をすれば、「英語でも」説明できるということで、英語以前に日本語で説明するべき内容を理解している人材が必要なのである。

『日本人全員が佐藤さんになる日』書影『日本人全員が佐藤さんになる日』(吉田 浩、朝日新聞出版)

 繰り返しになるが、リアルタイムで英語と日本語が相互翻訳可能な時代だからこそ、日本語で正しい内容が語れて、書ければ、そこから先の翻訳・文書化してレポートの体裁に整えたり、地球の裏側の相手に伝える作業はコンピューター側の仕事となる。

 これを別の言い方にすれば、外国人からの「なぜ日本人はサービス残業をするのか」や「サムライ精神とはどういうことか」という質問に答えるには、英語がいくら上手でもそれだけでは十分ではない。これらの背後にある日本人のカルチャーに対する十分な理解を整理しておくことが必要なのである。

 さらに一歩進めば、最近はこの説明するべき「内容」もChatGPT等によって、質問を入力するとスラスラときれいな日本語なり英語なりでコンピューターが答えてくれる。もはや「説明できる能力」さえ人間には必要なくなるおそれがある。

 このように思いをめぐらせながら、必要とされる能力の核心に迫っていくと、最後に残るのは先にも挙げたように、「そもそも何を問題として議論するべきか」という「課題を見つけ出す能力」になる。